ターマーエッセイ

一切が無関係

昔読んでいた本が「今」も面白いとはならない

「趣味を否定されたことはあるかな?」

 

「あるよ」

 

「何か、自分まで否定された気にならない?」

 

「あるあるw」

 

というのをマクラに持ってきた「Rigo」です。

 

高校生ぐらいの時だったか?

自分の大好きな漫画を

友達に紹介したら、その漫画を

否定されたな~。

 

悲しかったなぁ・・・( ;∀;)

 

まぁ今思えば「その漫画」の

「ダメ」な部分を指摘していただけ

だったのだから、何も落ち込むことはなかった。

 

彼にとってその要素

(バトル漫画でいえば「死」の要素)

がないことはつまらなかったのだろう。

 

まぁそんな与太話はさておき。

 

最近思ったんだけど

ブログって慣れると楽しいわ。

 

最初は不慣れで、何を書いていいのか

分からず、とりあえず興味があったことを

カキカキしていた。

 

「これ誰が読むんだろう?」

と思いながらね。(笑)

 

でも指を使って、キーボードを叩いていると

何というか「身体感覚」的な現象なんだろう。

 

毎回ではないけど、心地よさを得る時が

あることが分かった。

 

対面でのコミュニケーションが

人並にできないと「思っている」自分にとっては

ブログの「時間」は大いに有効活用している。

 

なにせ、ブログはいくら時間をかけても

減るのは自分の時間だけ。

 

対面コミュニケーションと違い

脊髄反射的に「あ」といえば「うん」

「つー」といえば「かー」みたいな

コミュニケーションは求められてはいない。

 

ブログは単純に面白いか、面白くないか

楽しいか、飽きてくるかだけ。

 

くだらないネタも

ちょっとユニークな言い回しも

つまらない話も

ちょっと型にはまったセリフも

どれもブログだと「書ける」わけだ。

 

これが対面のコミュニケーションでは

ムズカシイ。

 

特に「気心」しれている友人が

今のところいない自分にとっては

ブログで書いているこういう話は

できないし、もっというなら

「思いつかない」。

 

もちろん、実際会って

自分の興味ある話が

できないかといえば

そんなことはない。

 

つい最近も、デイケアの人と

「本」の話題をした。

 

中島義道という哲学者の話から

ドストエフスキーを少し読んでいた

という話もしたし

話し相手だった彼が

苫米地英人岡田斗司夫

好きだということも分かった。

(彼は吉本隆明小林秀雄も読んでいるので

理解できているかどうかは別として

読書が好きなのは分かる。)

 

偶然だけど、同じ地元の生まれで

ただ、私の生まれが平地なのに対して

彼は高地だった。

 

「こういう出会いもあるんだな」

と感慨にふけっているところである。(笑)

 

で、ブログに話を戻すと

私は基本、このブログでは

哲学の話もしないし

文学の話題も出さない。

 

理由は簡単で

以前にも書いたけど

「本」のことをまるで

「理解していなかった」から。

 

要約程度ならある程度

できるだろう。

 

しかし、要約程度の文章は

腐るほど、ネット上にざらにある。

 

今のところ、彼らの文章よりも

普遍性があり、人を惹きつけられる

文言は書けない。

 

それに、哲学チックな文章

文学チックな文章って

実は「読みづらかったり」する。

 

昔、ネットサーフィンをして

文学や哲学のブログを徘徊していた時期に

思ったのだけど

「言い回しが好き」でとか

「難解な文章を読ませるのが趣味」でとか

になっている人が多いことに気づく。

 

そんなの読む人いねぇよ!

と思っていたら案の定コメントがついてない人もいれば

なぜかコメントがついている人もいる。

 

「あれで理解できるのか・・・」と感じた瞬間である。

 

ああいうブログがあることは否定しないけど

私はああいうブログにはしたくない。

 

シンプルに思ったこと、考えたことを

伝えると。

 

じっくり時間をかけられるブログは

そういう意味でスゴイツールだよ。

 

とか言いつつも、最近では

文学の話や哲学の話も入れていいかな

と思ってるんだけどね。

 

ただ面白いもんで、昔読んでいた本が

「今」面白いとは限らなかったりする。

 

私にとって、中島義道の本は

そういう本だった。

 

というか、私が大学時代に

読み漁った本のほとんどは

そう感じた。

 

おそらく理由は二つ。

 

単純にその本が流行に乗った本であったから。

 

もう一つは、自分がその本を

掴み切れていないから。

 

中島の本は、残念だけど

たぶん今後は読まないと思う。

(気にはなっても)

 

反対に他の世界文学とかは

もしかしたら今後、自分の血となり肉となり

化ける可能性はある。

 

それぐらいの力を世界文学からは感じる。

(日本文学も負けてないよw)

 

それにしても、最近の自分の「物語」離れって

一過性なのかしら?(´・ω・`)

 

f:id:remone-dox:20180118082127j:plain

(ある人が言っていたように読書する際、ただ読むんじゃなくて

感情を入れて読むと記憶に残るんだぜ。小説や漫画はそれができる

いい素材だ。)

 

「し」に始まり「し」に終わる

言霊について

学んでいる「Rigo」です。

 

何を隠そう

私が気にしている50音の一つに

「し」のひらがながある。

 

私のハンドルネームである

「Shu-Zan」も「し」が

使われていて

この字は謎めいている。

 

以前の記事でも「し」について

ちょこっと触れたけど

今回はもう少しまともに

書いていく。

 

私が気づいた一つの気づきは

「始まる」という字も読み方は「し」だし

「終わる」という字も読み方が「し」の点。

 

「それに気づくと何かあるの?」

と思う人もいると思うので

順に説明していく。

 

私たちにとって、一番の願いは何だろうか?

 

「そりゃ、幸せになることでしょ?」

 

そうだ。

 

幸せになること、これが一番の願いだ。

 

ところで、この「幸せ」という感じにも

「し」が使われている。

 

なんでだろう。

 

ここでは深く突っ込まないけど

私たちはいたるところで

この「幸せ」の予兆である「し」を感じているのに

「合わせ」ることができない。

 

むしろ、感情が「死に絶え」

「幸せ」の感度が鈍ってしまうことさえある。

 

恐ろしいことに

この「幸せ」の「し」も

「死ぬ」の「し」も同じ「し」なのだ。

(「し」ばっか見てゲシュタルト崩壊すんなよw)

 

そういう意味では、この「し」の言葉は

多義的であることを凌駕して

ほとんど、四(これも「し」だ)方八方的だ。

 

つまり、色々なイメージが出てくる。

 

今思いついたけど「人生」も

「し」に強調の「濁点」がついている。

 

「時間」もそうだ。

 

とにかく、「し」という文字から

出るイメージは無限大と言ってもいい。

 

そこで話は戻り

始まりと終わりになる。

 

私たちはこの世界で事実として「生まれ」

事実として「死ぬ」。

 

これは疑いようもないことだ。

 

仏教でも「生老病死」は当たり前の事実として

受け止められている。

 

だが、ここで気になるのは

その「始まり」も「し」であり

「終わり」も「し」なのはどういうことか。

 

生まれることはこの世に誕生することであり

死ぬことはこの世から消滅することである。

 

であるなら、意味が違うのだから

使う文字が違ってもいいはず。

 

しかし違わない。

 

ということは、漢字を輸入してくれた

昔の中国の人は

「始まる」も「終わる」も

「同一」「同じこと」であると考えていたのではないか。

 

一つの言葉で二つの意味を表す。

 

それが「し」。

 

だとすれば、何も死を過度に

恐れることはない。

 

だって「終わるのも」

「始まり」なのだから。

 

ウロボロス的にお互いが

お互いの「尾」を食い合っている状態。

 

スピリチュアルの力を借りるまでもなく

私たちはそうやって

何度も何度も生まれ変わっていく。

 

そういう意味では人は「死なない」。

 

だけど、今世の人生で

一回の人生しか歩めない点では

人は「死ぬ」。

 

「死」について二つの意見があるのも

結局はそういうことだと思う。

 

私の現状に当てはめた時

自分の人生において

実は自分が「死なない」と思い込む方が

人生を生きる上で楽しく過ごせる

こともあるのではないか。

(「自堕落に過ごす」ということではなく)

 

そういうことを考えながら

「し」のイメージを膨らませている。

 

貴方は「し」にどんなイメージがあるだろうか。

 

f:id:remone-dox:20180116190634j:plain

 

学びをやめて、始める学び

春は塩。

 

夏は醤油。

 

秋は豚骨。

 

冬は味噌。

 

とまぁ「枕草子」の一節を

使った話をマクラにして

(ラーメンネタっすw)

今日は「学び」について。

 

私は今までの人生で「学び」について

深く考えてこなかった。

 

英国数理社、それ以外と

ただ単にお行儀よく

机に座って真面目に授業を受けてきた。

 

「それはいずれ何かの役に立つのだろう」

とぼんやりと考えて来る日も来る日も

授業に出ることを大事にしていた。

 

だから、授業を休むことは

異常に恐れていた。

 

というのも休むと基本的には

授業についていけなくなるからだ。

 

そのせいか、調子を崩して

寝込むようになると

「休んでいること」に罪悪感や引け目を感じた。

 

おそらくこれはそこそこ学業では

優等生だった自分の「休んではいけない」

という価値観からくるものだったのだろう。

 

今でも実を言うと休むと

「時間を無駄」に使った感覚に

苛まれる時がある。

 

よくよく考えれば、当時もっと

休むことを覚えとけばよかったのだ。

 

が、実は心の底で勉強しないと

人生で躓くだろうと思っていた自分は

休むことが出来なかった。

 

もちろん休養がてらに、漫画を読んだり

モバゲーの恋愛小説を読んだり

マスターベーションしたりしていたわけで

「少しの間」の休息はあった。

 

しかし、学校に行くこと・行かねばならない

という風にしていた自分にとって

果たしてその休息に意義を感じていたか

というと怪しい。

 

なぜなら、結局体調を崩したアルバイトも

「行かねばならない」という価値観になり

ついには息抜きを忘れたからだ。

 

今思えば(この言い回し多いけど)

あの時、もう少し「自分探し」なり

「自分創り」に精を出していればよかった

ような気がする。

 

当時、mixiなどのネットの

コミュニティサイトに入ることもできず

はたまたリアルの居場所なり、~会に入ることも

できずじまいだった自分にとって

「居場所」と呼べる所は存在しなかった。

 

唯一、気楽になれるのが「家」ぐらいなもので

ここら辺は「引きこもり」の皆さんと

同じかと思っている。

 

一時期は家もダメになり

(家にいても安心できなくて)

「どうしよう・・・」

と思っていたけど

最近は家にいてもそんなに

苦しくなくなった。

 

それでも、ピンポンとかがあると

びっくりΣ(゚Д゚)して出ないんだけど。

 

話が居場所の存在の有無

みたいな話になってきたけど

自分が言いたかったのはこっちではない。

 

そうではなくて自分の嫌いな勉強

苦手な学びを「やめる」力というのが

当時の自分にとって必要だったということ。

(人からどう思われようとも)

 

そしてその代わり、ただやめるのではなく

自分が興味を持ったこと

あるいは興味がありそうなこと

たとえば、音楽でいうところの「楽曲づくり」とか

最近で言えば、野鳥について調べるとか

ポケモン・五七五を詠むとか

(これについては別記事で書くつもり)

そういうことに時間を費やすことで

自分の経験を増やすことが必要だった。

 

折角インターネットというものがありながら

私はそれさえもしてこなかった。

 

それは後悔している。

 

ただひたすら、人生が「ツム」方へと

歩いていたわけだ。

 

ただ人生がツンだおかげで

今までの学びをやめることになり

(やりたくないこと)

始める学びもある逆説もしれた。

(本当はやりたかったこと)

 

こういうことは、本来大学生の時に

気づいた方がよかったのだけど

まぁ、渦中にいる時は気づかないだ、これ。

(木の葉丸風)

 

f:id:remone-dox:20180116103438j:plain

(タイのサンディビーチという場所。象、脱力しすぎわろたw)

えんぴつ事件~同級生への強い憎しみ

少し間が空いてしまった

「Rigo」です。

 

今日は、自分の中の

ネガティブ経験を

吐き出していこうと思う。

(またか、と思う人も

多いだろうけど)

 

これは自分の身に起こった事であり

大なり小なり、似たような経験を

している人はいるんではないか。

 

えんぴつ事件。

 

これは「嫌だ~!!!」と言えなかった

当時の自分を象徴する出来事だった。

 

私は、中学生の時、鉛筆を使っていた。

 

周りの人は恐ろしいぐらい

「シャーペン」を使っていたにもかかわらず

私は周りの風潮に合わせなかった。

 

右向け、左をする性格であったことだけでなく

単純に「シャーペン」よりも

「鉛筆」の方が使いやすかったのだ。

(日本の伝統文化だし)

 

ある日、友達に鉛筆を

貸してみた。

 

というのも、その時鉛筆削りを壊し

自分で鉛筆が削れなくなっていた。

 

だから、手先の器用な同級生に

「その彫刻刀で削ってくれないか?」

と頼んだのだ。

 

映画「この世界の片隅に」では

たしかヒロイン主人公の「すず」さんが

鉛筆を小さくなるまで削っていたけど

ああいう風にして使える状態にしてもらおうと

思ったのだ。

 

最初はよかった。

 

普通に削ってくれて。

 

ところが、ある日そいつに鉛筆を貸したところ

別のクラスメイトが自分の鉛筆に目をつけた。

「返ってきているかなあ」と思って自分の筆箱を見ると

完全に真っ二つにされた亡骸の鉛筆があったのだ。

 

見るも無残。

 

残骸である。

 

記憶が間違ってなければ、自分はその瞬間

「なんだよこりゃ!」と言う反応をしたと思う。

 

すぐさま手先の器用な彼に問い質した。

 

「なんだよこれ」と。

すると

「いやあいつがw」

と後ろを向くと

腹を抱えて笑っている奴がいる。

 

鉛筆を真っ二つに折ったのは

そいつだった。

 

私はどういう訳かそいつに対して

「怒れなかった」。

(「いじめられていた」のではなく

「いじられていた」から)

 

むしろ残念がる「ふり」をしたのだ。

 

「やめろーよ。ふざけんなよw」

と笑って誤魔化してしまった。

 

私は芸人を目指していたわけではないけど

そういう「ハプニング」がクラスで

起きることは自分にとって

「オイシク」もあったのだ。

 

ただ、今思えば、あの事件は

自分で自分を傷つけた事件の一つだと思う。

 

「大切にしている」鉛筆が

折られたのだ。

 

あなたにも大切にしているものが

一つや二つあるだろう。

 

それが使えなくなったら

おそらく「怒る」か「悲しむ」だろう。

 

しかし私は、とにかくその場を

取り繕って「空気」を読んでしまったのだ。

 

これ以降といったら大げさなのだけど

周りのクラスメイトと「心」から

深く交わることはしないようにした。

 

それは自分がまた傷つくのが嫌だったためである。

 

自分としては心を許したから

大事な「鉛筆」を貸したのに

それがああいう形で返ってきた以上

「心」を閉じるしかなかった。

 

人によっては「何を鉛筆程度で」

というかもしれない。

 

しかし、たとえばあなたが買っている犬が

翌日起きて犬小屋を見たら、足と手の骨を

折られていたら、どういう気持ちになるだろう。

 

私の気分はまさにそういうものだった。

 

鉛筆「ごとき」ではないのだ。

 

その当時の鉛筆は自分にとって

「生き物」と同じ扱いだったのである。

 

なぜ、この話をしたかと言えば

最近になってその「鉛筆が折られる」夢を

見たからである。

 

夢を見ている最中の自分の「憎しみ」はすさまじく

「そいつら」を夢の中で「ぼこぼこ」にしていた。

 

「ああ、まだ心にそういう怒りが

残っていたんだなあ」と自覚できたのでよかった。

 

また見るかもしれないし

また新しい「傷」を夢の中で

発見するかもしれない。

 

同時期に見た夢の一つに

Aというそこそこ仲の良かった

同級生を「憎んでいる」夢があった。

 

おそらく「大切にしてほしい」とか

「理解してほしい」とか

「認めてほしい」とか

色々な感情があったのだろう。

 

しかし、それを口に出せないし

出すという意味すらも当時は分からなかったから

今になって「憎しみ」として

自分に残っている。

 

ある人によれば、我慢が蓄積すると

「怒り」になり「怒り」が蓄積すると

「憎しみ」や「恨み」に変わっていくという。

 

このメカニズムは嫌という程

経験していたのでこれを聞いた時

「こうして自分は人を憎むように」

していたんだということが分かった。

 

もうおそらく人を憎むことはないだろう。

 

「我慢」しなきゃいい話だし。

(意外とそんなことでもないのか?w)

 

ということで、今回はこの辺で

終わりにする。

 

最後に。

 

あなたがいじられキャラである場合

あなたは誰か周りを本心では憎んでいる可能性が高い。

 

自暴自棄になり彼らと縁を切る前に

もう少し、自分の周りに思いを伝えること。

 

まぁそれができる人は年齢関係なく

「大人チック」な人だから、芯があるというか

人間が出来ている人なんだよね。

 

渦中にいる人はそれに気づけないか。

残念!。(ギター侍ではないよ)

 

f:id:remone-dox:20180115172942j:plain

自分は生きている資格がないと思ったり、かと思えば勃起したり

前回、自己紹介で自己啓発

スピリチュアルとは違うブログである

と書いていた自分は

昨日、阿部敏郎さんの

一瞬で幸せになる

「いまここ塾」の教え

という本を読んでた。(笑)

 

「あの世に聞いた

この世の仕組み」でも有名な

雲黒斎さんとタッグを組んでいる人。

 

いやいやいや。

 

決して「悟り」とかに興味があるわけじゃないよ。

 

ただね、この人の本面白いの。

 

そういうのを抜きにして読む手が止まらなかった。

 

その中でもあるキーワードが気になった。

 

それが「自分は生きている資格がない」

というもの。

 

「自分は生きている資格がない」

というのは、いわゆる「無価値」感のこと。

 

自分には価値がない、自分は何もできないなど

の思考が渦巻く感覚。

 

これは言われてみると

自分にもあることに気づく。

 

漫画「NARUTO」に出てくる

ブランコのワンシーンにではないけど

ナルトの周りの人は親兄弟もいて

成績も優秀な一方

自分にはそれがない、と

つくづく思い知らされる。

 

あのシーンほど強烈なシーンはない。

 

どちらかというと「心の闇」は

ライバルである「サスケ」の方が深い

と思われがちだけど

ナルトはナルトで充分

どん底を経験している。

 

ナルトとサスケ、どちらがより深い「闇」かを

比較するのはナンセンス。

 

どちらが「自分にとって」印象的だったかが問題。

 

で、話を戻すと

自分も同じように「生きている資格がない」

とたぶん、今も心のどっかでは思っている。

 

それはいじめという体験だけではないと思う。

 

おそらく、幼少期に感じていた

「無力感」みたいなものが

積もり積もった結果

それにさらにダメ押しするかのように

いじめられたことで

「生きている資格がない」という価値観を

作り上げたのではないか。

 

というのはあくまでも原因論

 

そういうことも視点としてはあっていい。

 

ただ、そうでない現実もある。

 

たとえ、幼少期に「無力感」を感じて

なおかついじめられたとしても

「自分は生きている資格がない」

という価値観を作り上げない人もいる。

 

で、こういう思い込みは

外した方がいい、と言うのが一般的だ。

 

だけど、自分と同じく

なかなか外せない人もいて

それはそれで仕方がないと思う。

 

だって、外せないんだから。

 

自分で「自分は生きている価値がある」

と思い込もうと思ったって

「自分は生きている資格がない」の

価値観が自分のゆずれない思いに

なっているわけだから

どかそうにもどかせない。

 

ただどんな人もそういうことを考えないで

幸せになることはできる。

 

それが「いまここ」の感覚。

 

言い換えれば、頭空っぽの状態。

 

「いまここ」における瞑想は

どんな形であれそれが可能。

 

たとえば、味わう、聴く

触る、嗅ぐといった行為は

どれも過去でも未来でもない。

 

「過去」は「過ぎ去って」いるから「過去」。

 

「未来」は「未だ来ない」から「未来」。

 

こういう体験をしている時

私は「いまここ」にいる。

 

もし「いまここ」を感じてないとしたら

あなたは今、過去か未来の世界

つまり頭の中の妄想の世界にいるということ。

 

「自分は生きている資格がない」も

その一つ。

 

ワンピースに出てくるニコロビンは

最終的に「生ぎたいっ!!!!」と

仲間であり自分自身に言うことで

自分自身を救うことになった。

 

それは、ロビン自身が

過去や未来に生きるのではなく

「いまここ」のために生きようとしたから。

 

「いまここ」って自分もそうだったけど

分かってても実行しないところがあるんだよな。

 

でも「いまここ」が分かるようになると

「生きている資格がない」と

思っている時の方が「変だ」ってことに気づける。

 

f:id:remone-dox:20180112193856j:plain

(最近、気づいたのは勃起ってのも

「いまここ」の感覚なんだよね。だから不能とか

インポテンツの人って「いまここ」を感じる力が弱いんだと思う。

自分や村上春樹の主人公が一時期そうだったように)

 

自己紹介&このブログは何?

改めまして

このブログの主である

「Rigou Shu-Zan」っす。

 

読み方は「りごう・

しゅーざん」でOK。

 

呼び方は

「りごう」でも「しゅーざん」でも

「りごうさん」でも

まぁ、正直なんでもよい。

(変な名前じゃなきゃ)

 

自分の中で使いやすいから

この呼び名を使っているだけ。

 

実名とはかけ離れているけど

私は一度、ツイッターで実名にして

つぶやき大暴れした記憶があり

他人に悪い迷惑をかけてしまった。

 

それ以降、実名の弊害もあると知り

匿名のハンドルネームに戻すことにした。

 

この名前は相当気に入っている。

 

名前の由来は私の地元の漢詩の得意な人が

書いた本の言葉を使っている。

(世に出回ってない本)

 

歴史上の人物であり、明治デモクラシー期に

自由民権運動が盛んにした男。

 

まぁ、そんな人いっぱいいるので

たぶん、これだけの情報量では分からないだろう。

 

で、このブログは一体どういうブログなのかいうと

基本的には、自分の興味関心があることについて

書いている。

 

ネットには、腐るほど自己啓発、スピリチュアル

ブログが乱立していて、各々が競い合っている。

 

そういうブログではない。

 

じゃあ、日常系の雑記ブログや

ライフハックかというと

そういうことでもない。

 

たしかに、日常系の記事も書いている。

 

しかしどちらかというと、私のブログは

「気づいちゃった、気づいちゃった、

わーい、わい♪」に始まるような

なんかしらんけど

本読んでたら、動画見てたら、音楽聞いてたら

「これってこういうことなんじゃ?」

という投げかけ、問いかけをする記事を書いている。

 

私の性格ではどちらかというと

白黒はっきりさせたいし、私の価値観を

押し付けたいし、実際押し付けていることもあるけど

このブログのイメージからは外れている。

 

哲学「的」というか

思索「的」な文章を書いている

と思っている一方で

それだと、抽象的になりやすいので

なるべく、世の中の常識から遊離しすぎない

記事を書いているつもり。

 

その時々の体調によって

できふできがはっきりと出る。

 

ターマーエッセイという名がついているけど

これは「たまたま」

「た」と「ま」の響きがいいことに気づいたのと

哲学者でありユーモアエッセイストの

土屋賢二」さんに何というか

ベタ惚れというか愛しているというか

大好きというか、なんでもいいのだけど

とにかく「エッセイ」として

ちょっとでも笑いが起きたら

「自分の勝ちだな」と思っている。

 

土屋賢二さんの本で好きな言葉は

「汝自らを笑え」というのと

「私の得意なのは休符である」という奴。

 

どちらも意味深であるけど

自分で意味があると思っているだけで

本当は意味なんてないのかもしれない。

 

タイトルの下にある

「一切は無関係」という言葉は

誤解する人もいると思うけど

この「一切」というのは

自分の「感情」について「一切」ということ。

 

ネガティブな経験も

「もう一人の僕」からみたら

(この表現の方が遊戯王世代には

分かりやすいし自分はこの表現の方が

しっくりくる)

全然「悪い」ことではなくて

むしろいい悪い関係なく(無関係)

どんな経験も

「もう一人の僕」からみたら

オールオーケー。

 

だって「もう一人の僕」は

この世の出来事を経験したいだけだから。

 

といっても、あくまで私の場合

自分とは異なる、対の存在である

「もう一人の僕がいるんだなあw」

ぐらいしか思ってないので

当然「悟って」いないし

頭での理解だけだし

本当のこというと「悟り」に

興味がないっす。(笑)

 

それぐらいかな。

 

まぁこのブログも大ざっぱにいえば

「人生の足跡ブログ」とも言えるのかな~(*'ω'*)

 

f:id:remone-dox:20180110084223j:plain

図書館においてある本の9割は「自分にとって」無価値~論文系や説明系の本は読み手を無視している

あくまで私の実感なので

あてにしないでね。

 

大学生になってから活字を読むことが

習慣になっているせいか

時々「図書館」に行きたくなる。

(正確には図書館しか

行き場所がなかったりするw)

 

で、最近なんかは

図書館に行くと

その時の気分によって

本棚の前に立って

ゆらゆらする。

(周りからみたら変な人)

 

たまに面白い本が見つかる。

 

反対に全然面白くない本が

見つかる時もある。

 

自分なりにその違いを考えてみた。

 

まず、私の読書レベルというと

そんなに高くない。

 

論文系の文章は

読めない。

 

ガチガチのフォーマットで

作られた文章は完成度は高いのかもしれないし

今後、読めるようになるのかもしれないけど

今は、全く読めない。

 

f:id:remone-dox:20180109202623j:plain

(こういう分厚い本は手にとって終わり)

 

次に、説明系。

 

これは妖怪の種類とか

縄文時代の歴史についてとか

いわゆる、知識だけひけらかして

特に読んでいる側からすると

「発見」や「気づき」が得られない

文章を指す。

 

残念だけど、こういう本は

反面教師にさえならない。

 

だから、時間とともに

忘れ去られていくだろう。

 

どちらの本も、存在自体を

否定はしていない。

 

本が売られ、その本を買って

まして図書館の本棚に並べられるぐらいだから

本当に「ごみ」みたいな本に比べれば

ましだろう。

 

欲望がそこにはあるわけだ。

 

しかし、ネット時代と呼ばれる時代において

ああいう「論文系」本や「説明系」本は

読まれない。

 

理由は簡単だ。

 

堅苦しいからである。

 

たとえば、友達もいない

家族とも上手くいってない人が

本の世界に逃げたいと思った時

 

「この本は、文明論的なアプローチも

視野に入っているのである」とか

呑気に妖怪の種類の説明をしているだけの本を

読むわけがない。

 

こういう人が、ネットの記事に行くのは

少しでも「現実逃避」したいからである。

 

そこで行われている身近なやりとりが

見たいからである。

 

にもかかわらず、今日も明日も

本屋さんに並ぶ本は堅苦しい本か

説明本だったりする。

 

分かっていないのだ。著者たちは。

 

若者が何を欲望しているのか。

 

それが分かれば、そういう言葉を

本にちりばめるはずなのである。

 

もちろん門外漢で語れば

「知った口ききやがって。

お前がキングダムを語るな。」

と言われてしまうかもしれない。

(たとえばねw)

 

でも、何にも響かない文章を読むよりは

自分の知っている「何か」について

書かれている文章の本が圧倒的に

自分自身に残る。

 

それは経験上言えることだ。

 

たとえば内田樹さんの文章の

章分けには、ちょっと

気になるワードが入っていたりする。

 

特に彼は「漫画」に精通しているので

漫画の名前が出てきたりすると

私としてはそこで読むのが中断できない。

 

ワンピースしかり。

バガボンドしかり。

 

ただし、私は彼の論文系の文章は

読めない。読みたいとさえ思わない。

 

その本の展開は、いわゆる図書館の本棚に

並んである論文系の本と変わらない。

 

私はこういう文章を

じっくり読んで理解したい

という気持ちがまるでないのである。

 

そういう意味では私は読書のアマチュアである。

 

読書に関してはプロになりたいとさえ思わない。

 

そしてそれでいいのだと思う。

 

私にとって大事なのは本から

イデアがもらえることなのだから。

 

f:id:remone-dox:20180109205822j:plain