ターマーエッセイ

ちょっと、エッセイのコツが分かったかも。

怒りんぐ

怒らないのではなく

怒れない人が増えていると聞く。

 

かくいう私も

怒れない。

 

正確には、怒るエネルギーを

出してないということなのだけど

自覚はあるため、その内出るようになる

と思っている。(たぶん)

 

そうなったのには、いくつかの経験があって

「怒る」と、本気モードになってしまい

相手を血まみれにしてしまうのではないか

という恐怖があるからだ。

 

クラスメイト達は喧嘩になると

よく相手をぼこぼこしていた。

 

あれを見て、恐怖に思ったのだろう。

 

自分もああいう「攻撃性」が隠れている。

 

「怒って」それを解放したら

とんでもないことになる。

 

その妄想が、強くなったのが

小学校高学年であり

それ以降、「怒り」を時々出すことは

私にとって、禁忌に近いものとなった。

(喧嘩が苦手なせいもあるな)

 

調べてみると、怒りというのは

二次感情というもので

実際は、その下に違う感情が

隠れているという。

 

「恥ずかしさ」「不甲斐なさ」

「寂しさ」「心配」

「苛立ち」「残念」

「不安」「悲しみ」

「苦しさ」「疲れた」

「絶望感」「落胆」

などなど。

 

しかも、これらは

更に深い感情の上にある。

 

それが「大切にされたい」

「愛されたい」

「認められたい」

という感情。

 

これらが根底にあって

「怒り」というものが

発動する。

 

 たしかに、自分の例で

考えてみると

自分が危険な状況に晒され

怒りを感じた時というのは

「大切にされたい」

という感情があったことは

しばしばある。

 

それが、好きだった人たちから

いじめられた時の例であれば

「大切にされたい」という感情があったに

違いない。

 

怒りは間違いなくあった。

 

今回のタイトルは「怒りんぐ」と

ふざけているけど

書いている文章は、本気。真剣そのもの。

 

なんせ、私の中の怒りがきちんと

出せるようになれば、人生は好転していく

可能性が高い、と思っているから。

 

今は、まだカサブタがくっついたまま。

 

でもそれがあったおかげで

今日まで生きてこられた面もある。

 

「うっせんだよ」「静かにしろよ」

「黙れ小僧」などなど

言いたいセリフは山ほどある。

(それだけ、怒りが溜まっているのか?w)

 

今、書いていて思ったんだけど

そういう言葉が出てくるということは

何かしら、うるさくて何か

やりたいことができなかった経験がある。

 

そうか。

それは「勉強」だ。

 

たしかに、小学校高学年から

色んな面で

「頑張る」ようになっていた。

 

「勉強」も本当はやりたくないけど

やっていた。(学校の空気)

 

もし、自分が「勉強なんてしなくていい」

と開き直っていたら

「騒音男子」を嫌になっていたかは怪しい。

 

だって、騒音を理由に

勉強をしないことだってできるわけだから。

 

でも、当時は「勉強がとりあえず大事」だと

思い込んでいた節もあり

その勉強を阻害するような人は嫌っていた。

 

よく考えれば、私が嫌いな人達は

ほとんどが「勉強」に対して

不真面目で、学校の授業をまともに

受けていなかった。

 

それが、私にとっては

「嫌」だったのだ。

 

優等生の思考と言えばその通りだろう。

 

その後、自分も堕落するようになったから(笑)

彼らの気持ちが分かるようになったけど。

 

当時は「ずるいんだよ!

そうやって、勉強しないで

生きていけると思うなよ」

と思っていた。

 

しかし、勉強というのはしなくても

生きていける。

 

自分の成長や進化を望まない人にとっては

勉強は意味のないもの。

 

まして、好きでもない先生の授業なんか

聞いたって、理解できないし。

 

 あれ?そう考えると

クラスメイトに嫌いな奴いんのか?(笑)

 

今までは、彼らにいじめられる夢を

さんざん見続けてきたせいか

自分にとって嫌いな奴で

おそらく、自分が許すまでは

会わないだろうと考えてたけど

本当は違うんじゃないか?

 

「努力する」癖がついているから

コミュニケーションに踏み出さない癖が

ついちゃったのではないか。

 

今思うと、自分が苦手だと思ってきた

「姉」のいる「弟」たちも

コミュニケーションを欲望していた。

 

ただ、その当時は彼らの悩みに

返す言葉がなかった。

 

「うん。そうなんだ。」ぐらい。(笑)

 

でもあの時、本でも読んで

彼らの悩みを少しでも和らげるような

言葉を投げかければ

それはそれでまた面白い人生になったかもしれない。

 

 あれ?怒りは、いずこへ?

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唯一、手元に残っている「ナゾ」本

 哲学とはどういうものか。

 

ある人の言葉を借りると

こういう風にも言われている。

 

「哲学とは、その本人にとって

苦しんで、どうにかして解決したかった問題。

そのため、その後に生まれた人が

その人の書いた本を読んで

「よくわからない」と思って

ゴミ箱に捨ててしまうことはよくあるものだし

そういうものなのだ。」と。

 

こんな感じだ。

 

カントにはカントの問題意識。

ニーチェにはニーチェの問題意識。

ヴィトゲンシュタインには

ヴィトゲンシュタインの問題意識があった。

 

彼らの本を今の時代の人が読んで

共感や共鳴することはあれど

それは決して、大勢ではない。

 

ほとんどの人には訳が分からないのだ。

 

だが、面白い事に、私自身、全ての物事に

とまでは言わないけど

そういう「変な」ものに興味を持つ傾向がある。

 

「変なものにスポットを当てることが

できるのは自分しかいないのかもしれない」

 

当然、自分が「変に」思っているんだから

すぐには、理解できない。

 

というか、今も理解できているのかは怪しい。(笑)

 

 たとえば、日本の哲学者で、中島義道という人がいる。

 

けっこうファンが多く、その著書の一つである

「うるさい日本の私」は、当時かなり影響を受けた。

 

「日本はなんでこんなうるさいんだ!」

という問題意識から、行政の人や一般人と

バトル、大学時代、中島の戦闘的なスタイルに

共感もし実際、同じようなこともした。(笑)

 

結果、疲れるだけ、ということが

分かったけど

その中島の哲学の問題意識として

「死」の問題があった。

 

彼は、幼少期「どうせ、ぼくは死んでしまう」

という神経症的な悩みに取りつかれ

それ以降、「死」について考えを深めていく。

 

「死」を哲学している人で

メディア的に一番有名なのは

中島だと思っているけど

その彼は、「どうせ、ぼくは死んでしまう」

という問題意識の解決に向かうため

哲学の世界に飛び込む。

 

そこで、大森荘蔵や、今や哲学界を牽引する

哲学徒たちと出会い、最終的には

カントという知の巨人の思考に共感し

終生を共にすることになる。

(中島先生はまだご存命かと)

 

そういう中島の問題意識は

背景のない背景

つまり、子供の哲学として

ふっと、一瞬の問いかけとして

出てきたのだと思うと共感できる。

 

私が、大学時代

ヨーロッパの哲学や東洋思想などに

惹かれなかったのは

共感できなかったのが大きい。

(今もあまり惹かれていないw)

 

逆に、日本の哲学者は

自分の哲学がどういうきっかけで

生まれたのかを説明してくれるから

「ああ、彼ほどまで考えたことはないにしろ

この問いかけは、自分にもあるかも」

と共感できるのだ。

 

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ヴィトゲンシュタインの写真。

母校には彼にそっくりなヘアースタイルの先生がいたw)

 

 私が読んできたのは

ユーモアエッセイで有名な土屋賢二

独我論とは一風違う独在論を展開する永井均

他者の問題に踏み込み

ロジカルトレーニングとしても

有名な野矢茂樹

 

そして、一番、本として

「何だか分からない」なりに

ドはまりした本の著者。

 

入不二元義。

 

私は、大学時代にとある不注意で

買ってきた本を全部処分してしまった。

(「もう人生なんてどうなってもいい」

と思ったのが背景w)

 

ただ、入不二さんの本だけは、売った後

また買い直した。

 

今は彼の著作である

「足の裏に影はあるか?ないか?」

(足裏本と読んでいる)

リュックに眠っているだけなんだけど

折に触れて、読み返したりする。

 

相性があることはたしかだ。

(本の帯からしてw)

 

ただ、私が読んできた本の中でも

群を抜いて面白かった。

 

「具体的には?」と聞かれると

自分に問題意識がなかったので

ちょっと返答に詰まるのだけど

大森荘蔵さんの「ながれとよどみ」

の「雰囲気」に似ているようで、

似ていないところが面白い。

 

彼独自の哲学を展開しているように思える。

 

「無関係という関係」「地平線と国境線」

「便利と快楽とニヒリズム」「一回性と反復」など

他の哲学本には、ない想像力が

この本には働いている。

 

一時期、この本のファンとして

信者っぽいことをツイッター

やっていたこともある。

 

それぐらい、ハマったわけで

私にはよくもわるくも

他者の思考に共感しすぎる

「きらい」があるようだ。

 

時間の経過とともに

ファンは、ファンでい続ける場合もあれば

途中で降りるファンもいる。

 

私の場合は、前者だった。

 

未だに入不二さんのファンである。(笑)

 

 それは、未だに彼の考えていることが

分からないからであり、けど分かりたい

と思わせる稀有な思考の持ち主だからである。

 

 

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

 

 

孤独に耐える力をつける前に、人と仲良くなる(遊ぶ)ことの方が大事なような気がする

 小さい頃から

大好きで熱中できる

ものがあって

今もなお

はまっている何かがある人は

この話は関係ない。

(たぶん)

 

そうではなく

今、何も熱中できるものがない

という人に向けている話。

 

あるいは、何かに

飽きている、という人に向けて。

 

今回のテーマは「孤独」。

 

どんな人も避けて通れないのが

この「孤独」なんだけど

よくネットで見かけるように

「孤独になる」必要性は

本当にあるのだろうか?

 

それを今回は文章化してみたい。

 

こう考えるようになったのは

自分の人生と対話してみた時に

本当に「孤独」は

自分の経験として

(今の時点で)

何か、学びになったのだろうか

と疑問に思ってしまうからだ。

 

 大学生になった頃

晴れ晴れ「孤独」になって

すごく、自由な感じがしたのは事実。

 

しかし、そうやって

人と会わず、三年ぐらい「孤独」に

なっていると

「孤独」の「辛さ」が身に染みるようになる。

 

お坊さんでさえ、修行する際

師匠がつき一時間半の禅問答をする

と言われているにも関わらず

私は、ときどき

両親としゃべるぐらいで

あとは、本の世界へと

タイムスリップして

ほとんど人と口をきかなかった。

 

なにか、孤独を選んだことによって

自分に学びがあったかといえば

どうも思いつかない。

 

理由は簡単である。

 

当時のわたしは

「孤独」になるちゃんとした

目的意識がなかったから。

 

たとえば、これが「自立」のためとか

「起業する」とかであったら

「孤独」な日常にも

何かしら「学び」はあったかもしれない。

 

しかし、当時の私は

当時のつながりから「逃れたい」一心で

「孤独」を選び、そして本の世界に

「逃げた」だけ。

 

つまり「逃げた」先で

また「逃げた」のだ。

 

人によっては「本の世界に

熱中できるなんてすごいじゃないか。

そんな、逃げ、なんて言わない方がいいよ」

と言ってくれるかもしれない。

 

しかし、自分にとって読書するという行為は

「劣等感」からくるものだった。

 

「今よりもっと賢くなってやる」

と言っておきながら、対人関係には

ほぼ全くと言っていいほど踏み出さないで

本を読んでその世界に浸っているだけ。

 

これが「逃げ」でなく、なんなのだろう。(笑)

 

 このパターン、今書いていて思ったけど

公立ではなく私立高校に行くことを決めた時と似ている。

 

「あいつらを見返してやる」

と言ったものの、当時の自分の中にあったのは

「スポーツで頑張ること」

 

そして「劣等感スポーツマン」は

周りから評価されないことに気づき

「頑張っても報われないのか」

と気づき、その努力を諦める。

 

その時点で「人生の方向転換」が

できればいいのだけど

生憎、往々にして人間は

そういう「修正」ができない。

 

 そして、大学受験に入り

大学に見事合格した私は

違うフレーズで

自分にそれを言い聞かせ

またミスを犯すのだった。

 

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ネットが古くなる日~ググらない生き方に興味深々

 どんなものも

いつまでも新しい

ということはない。

 

そういう意味では

ネットもまた古くなる。

 

今はまだネットは

新しいツールとして

使われているし

まだまだネットに

代わるものは出ない

と言われているけど

その未来予測は外れる

可能性がある。

 

そう思ったのには

理由がある。

 

それは当時流行った

モバゲー、グリー

ミクシィといったサイト

あるいは、Facebook

ツイッターなどのサイトが

意外と、もう使ってない人が

けっこういると知ったためだ。

 

もちろん、これらのツールを

使って、自分の人生を充実させている人は

多かれ少なかれいるだろう。

 

しかし、ほとんどの人は

「つまらない」「飽きた」「嫌になった」

と理由をいくつかつけてやめる。

 

そして、ネットから離れていく。

 

こういう現象がある以上

ネット離れは進んでいくだろう。

 

一方で、ネットを使いこなしていく人たちが

社会的に成功したり、一目置かれる

ような存在になる。

 

これを巷では「情報格差」と呼び

「情弱」なんていう言葉さえ存在する。

 

それはおいておくとしても

「情報環境」の二極化は避けられない。

 

だから、自分がもし「情弱かもしれない」

と思うのであれば、情報を

進んで探す必要がある。

 

ただ、これにも限度があって

そんなに沢山、「居場所」的な場所を

探しても、このご時世たくさん出てくるのだから

「ここ、面白そう」と思うのであれば

そこと、あと数か所で的を絞って

その場所に行けばいい。

(人間の身体は一つしかない)

 

探しすぎて、たとえば私のように

大量のメルマガを登録したりしても

結局「つながらない」んじゃ意味がない。

 

 私がここ数か月で気になっている言葉がある。

 

それが「ググらない生き方」。

 

これがどういうコンテクストで

言われるのかはまだ

分からないけど

すごく関心がある。

 

前にもたぶん書いたけど

このご時世「ググらない」人の方が

少数派。

 

ググって自分の行動半径を広げる。

 

今や、それは常識だ。

 

しかし、それは、数十年前までは

常識ではなかった。

 

情報はたとえば本から本へ。

人から人へ伝えられていくものだった。

 

それが今やなくなっている。

 

そういう文化がなくなることを危惧しているとか

グーグルが検索エンジンを支配しているのが

気に入らない、とかそういう子供じみた理由から

「ググらない生き方」に興味を持っているわけではない。

 

単純に、ネットビジネスをしている人達に対する疑問。

 

「カッコ悪い」「ださい」「こうはなりたくない」

という考えからくるもの。

 

人によってはこれを当てつけだと

感じるかもしれない。

 

そうではない。

 

私はもっと、泥臭く、あがいてもがいて

人生を楽しみたい。(苦行ではないよ)

 

そういう考えの持ち主は、基本

「効率のよさ」とか「利便性」とか

いう理由で、ネットに極度に浸かることはない。

 

ネットビジネスが好きな人達を否定するつもりはない。

 

ただ、私は今のところ「こちら」の道は

歩きたくないだけだ。

 

歩きたくない場所を歩いて、どうする?

 

 とても滑稽な話だけど

自分が歩く方向に、水たまりがあって

そこでちぃちゃな小人たちが

おぼれて「わー。わー。」とやっていたら

そこは避けるだろう。

 

そういうことをしているのが

私にとってのネットビジネスのイメージ。

 

彼らは、一見成功しているように見えるけど

実は、溺れてもいる。(金にね)

 

だから、そういう人を見かけると

「ああ、また、小人がおぼれてるよ」

と切ない気持ちになる。

 

ほんとだよ。考えてもみてくれよ。

たとえば、自分の好きな一流のアスリートが

実はお金について語りまくっていたら

どう思う?

 

俺だったら、ファンやめるね。(笑)

 

なにもお金について語っちゃいけない

とは思わない。

 

ただ、大っぴらに語っている人は

信用ならん。

 

「そこまで言うぅ~??」

というのが私の感情だ。

 

だって、人間にとって

一番大事なものは「お金」じゃないから。

 

「お金」で買えるものがあるのも

事実なんだろうけど。

 

「お金」の話になっちゃったけど

そういうことで、私は今

「ググらない生き方」に興味が

あるのでございます。

 

 一年後、これを見返した時に

「あーあ、バカなこと言ってたんだw」となるか

それとも

「あれ?意外と周りにも

ググらない生き方の人増えてきたお」となるか。

 

非常に楽しみなんだな。

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造語作りは楽しい~死魔旨について

 これだけ

沢山の日本人が

検索をしている世の中で

どうして「造語」は

流行らないのだろうか。

 

私は、昔っから

漢字が大好きだった。

 

とはいっても

その魔力みたいなものは

説明がつかなかった。

 

当時の自分にはその魔力を

表現できるだけの言葉がなかったから。

 

今も、充分に表現できるとは

言い難いけど

漢字は私にとって身近なものだ。

 

漢字が好きなので

ある時から「造語作り」を

始めた。

 

これが意外と面白い。

 

「そんな漢字使ったって

誰もわかりゃしないよ」

という人もいるのだけど

元はといえば

言語というのは「作って」

「使った」人がいるから

「広まった」のであって

初めっから

知られている言語など存在しない。

 

だから、本人が使いたければ

使えばいい。

 

ただ、それを友達に話しても

「はあ?」と言われる可能性は高いけど。

 

「自分は漢字が好きだ」と言えば

その内、理解を示してくれる人も出てくるだろう。

(まだ実験してないので、分からんがw)

 

そしたら、少しずつ広まーるはず。

 

 そこで、一つ、例を。

 

「死魔旨」。

 

これは何と読む?

 

たぶん、漢字を習ってない子供は

読めない。(笑)

 

 

そう。「しまうま」だ。

 

これは今朝、たまたま思いついたもの

なんだけど(そういうの多いな)

作っている途中に

「これ、流行るかも・・w」

と思った。

 

「死魔」というのは仏教の概念でもあり

「寿命を奪って修行を妨げる魔物」

という意味がある。

 

そしてそれ+「旨い」。

 

「超~うまい」という表現があるけど

もう、日本人は「超~」に

飽きたのではないだろうか?

 

そこで、私が代わりの言葉を用意した。

 

「しまうま」である。

 

言霊的にも(「し」の文字)

音韻的にも(「ま」の文字)

非常に、言いやすい。

 

しかも、この言葉は、味が複雑で

動物のシマウマの縞模様のように

微細で微妙な味わいを表現する。

 

どうだ?とんだバカな奴の発想だろう?

 

だが、造語というのは

こういうものだ。

 

もし、日本で旨いもん食った時に

「しまうま」という表現が

流行るようになっていたら

それは私の力だと思ってもらってよい。

(ビックマウスやな)

 

興味ある人いたら

自分でスマホのボタンなり

キーボードを打つと面白いよ。

 

 たとえば、今「キーボー」って打ったけど

これだって同音異義語回転力さえあれば

「希望」に変換できるし。

「鬼謀」っていう変換もあるし。

 

キボンヌっていう2ちゃねるスラング

思い出せるし「キーボーのあの勃起」

という艶めいた(?)回文も作れるし。

 

くだらないことは置いておくとしても

「キーボー」でいうなら

「奇異坊」とか(=奇妙で異なる坊さん)

「貴意慕」とか(=貴重な意見に慕う)

作れるよ。

 

 使えるかは別として。

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明日、死ぬことを考えているなら~雄叫びを上げる覚悟はあるかい?

 その発想は私にはなかった。

 

それは9月1日に、自分で命を絶つと

決めること。

 

私の経験で正直に

言わしてもらいたい。

 

今の、あなたに必要なのは

緊急避難的に

一時的に「逃げる」場所を見つけ

そこに駆け込むこと。

 

しかし、これができるかどうかは

私には分からない。

二つの場合において、人は道を誤る。

 

一つは、本人に「逃げる」場所を

見つけられない場合、あなたは

どうしようもない状況に追い込まれる。

 

結果、命を絶つ。

 

もう一つは、本人に生き延びる意志が

もうほとんど、潰えている場合、

あなたは、打つ手がない。

 

結果、命を絶つ。

 

でも、おそらく、あなたは

どちらのパターンかになっている。

 

もし、そうでなければ

おそらく、人は自殺をしない。

 

自殺したいと思っても自殺しないんだ。

 

まだ「死んでない」から

「幸せ」になる可能性はある、と考える。

 

ところが、稀にこの両方のパターンを

経験しても、死なない人がいることも事実。

 

それが私だ。

 

あなたはこう思うかもしれない。

「あなたは強いからよ。」と。

 

そんなことはない。

 

隠す必要はないと思うけど

私は今だって、悩んで迷っている

人生を送っている。

 

そして本来であれば、こういう

メッセージは、今幸せな人が

送った方が伝わるのかもしれない。

 

そう考えていた時期もあった。

 

しかし、あなたも知っているかもしれないけど

自殺はなかなか減らない。

 

これだけ、著名人たちが

「逃げろ」と色んな経験談を交えて

語っているのにだ。

 

私は「あれれ?おかしいぞ~」

と首をひねった。

 

昔であれば、新聞やラジオ

今であれば、ネットの記事で

今の状況から脱せる機会を得る人もいるのは

たしかだ。

 

しかし、一部の人は、

こういったメッセージをスルーしている。

 

スルーするような環境下にいる。

 

テレビもない

ネットも、スマホもない環境に

いるのだとしたら

私のメッセージも同様に

空しく響くだけだろう。

 

あるいは、他者のメッセージを

受け付けない考えになっているとしたら

(ありえるけど)

このありふれたタイトルを

見ただけで「見ないと」決めるだろう。

 

だから、私は少しだけ

毛色の違う文章を書いている。

 

 最初、死ぬことを考えているなら

「逃げる」場所を見つけてほしい

と書いたけど、ほとんどの人はこれは無理だ。

 

経験則でなんでも言ってはいけないけど

私たちの時代でも、多くの人が

生き辛さを感じていた。

 

しかし自分を含め、周りのそういう同級生

往々にして人に助けを求めなかった。

 

今彼らがどうしているのかは分からない。

 

私はどういうわけだか、生きている。

 

その私が明日、死ぬことを考えている人に

言えることがあるとしたら

こう言う。

 

 あなたが、好きなセリフを大声で叫んでほしい。

 

思いつかない?

 

セリフは覚えているけど

気恥ずかしいって?

 

いやいや、何も、人前で叫ばなくてもいいのよ。

 

土手にいって、あるいは山にいって

人のいないところで、叫んでみる。

 

最初は上手く叫べないかもしれない。

 

声が思ったより出ないなんてこともある。

 

でも、練習する内に

お腹から声は出てくる。

 

そしたら、そのセリフから

勇気がもらえたり

感情をゆさぶられたりする。

 

そしたら、また生きる気力が沸く。

 

単純かもしれないけど

自分はそうやって

生き延びてきた。

 

生きる気力が沸けば

視野も広がるだろう。

 

きつい言葉だから

言わなかったけど

死ぬことを選ぶ人というのは

「弱い人」なのではなく

「視野」が「狭い人」なんだ。

(たぶん、あんまり人が

言わなそうだから言っておく)

 

 だから、視野さえ広がれば

あなたは、逃げる場所を

見つけることがきっとできる。

 

私もそうやって、逃げる場所を

見つけ生き長らえてきた一人だ。

 

まずは、叫ぼう。

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1+1=1だけど、1-1=も実は1?

 アイシュタインの有名な話がある。

 

彼が算数の時間、先生から

1+1=2だと教わった時

こう切り返したそうだ。

 

「こっちの粘土とこっちの粘土を

くっつけます。

どうですか。

1+1=1じゃないですか?」

 

先生はこれに答えられなかったという話だ。

 

これは発想の転換という点では

アイシュタインの発想力が光る面白い話だけど

ここで使われている1と

答えの1の大きさが違っている点では

ちょっと、狡さを感じなくもない。

 

そういう発想がありなら

こういう発想もありではないか。

 

 すなわち、ここにティッシュペーパーを

一枚置き、この1枚のティッシュペーパーを

半分にする。

 

つまり、1-1=するわけだ。

 

するとどうだろう。

そのなくなった一枚を横目に

まだ半分の一枚が残っている。

 

これが1-1=1である、という証明方法だ。

 

これは今日思いついた

出来たてほやほやの

イデア

 

 

たとえば一個あるりんごから

一個を引けば

それは、0になるのだけど

その際、その「1」を定義していなければ

その1個のりんごを半分かじる

という「引き算」もできるわけだ。

 

そしてその残りのりんごはちゃんと

半分にはなっているけど

「1個」として残る。

 

だから、見方を変えれば

1-1=1なのだ。

 

 これを「定義」が間違っているとか

「屁理屈だ」とかで話を回収してしまうのは

面白くない。

 

哲学者にはそういう議論を喧々諤々として

楽しんでいる人もいるわけだけど

イデアはアイデアとして

受け入れてみた方が時には自分の視野に

広がりが出る。

 

今日はそんな話をしてみたけど

何のことはない。

 

 特に役立つ話でもないんだよ。

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