ターマーエッセイ

一切が無関係

孔雀舞とバブル世代

今日も短いよw

 

最近、ピアノを始めて(唐突w)

色んな曲の一部分を弾いては

断念しているのだけど

意外なまでに

自分の知っている曲の中には

「C」「F」「G」「Am」などで

弾けるものがあるんだな。

(「恋のマイヤヒ」や「レリゴー」など)

 

ピアノを弾いていると

時間の経過があまりにも早いので

困っている。

 

「一日、一時間ぐらい弾けたらいいな」

とか考えてたら

この二日間なんかは

二時間以上、集中&没頭&沈潜している。

 

そんな訳で、徒然草の記事の方は

不人気の事もあり(苦笑)

ピアノ諸事情もあり

一週間に一回ぐらいになりそう。

 

ところで、今日、遊戯王リマスターを

見ていたんだけど

「対話」していたら新しい気づきがあった。

 

それは孔雀舞というキャラは

遊技王においてどういう位置づけか?

ということ。

 

私は当時、アニメ遊戯王の世界観に入り込めず

カードゲームにはまっていたので

アニメのセリフなどはほぼ覚えていなかった。

 

しかし、今テレビでやっている

ドーマの三銃士編なんかを見返していると

孔雀舞が猛烈な「劣等感」の持ち主

だったことが分かる。

 

アドラーのいう

自分に対しての「健全な劣等感」の持ち主ではなく

他者比較での強い「劣等感」があるのだ。

 

「負けたくない」「勝ってもなお飢えがある」

なんていう心理を持っている間は

舞は幸せになれないだろう。

 

当時は、高圧的で、最後のバブル世代とも

言えなくないファッションとメイクで

私を驚かせた孔雀舞だったけど

(ここらへん、今だから言語化できてます)

スピリチュアルやオカルトを全く信じないで

ただ、カードゲームでの勝利を目指す

海馬社長と同じように

「人生で負けたくない」という価値観が強い。

 

この価値観、もしかして「バブル世代」に

強く根付いているのかもしれない。

(ということは、その前の親世代も同様)

 

ドーマの洗礼を受けた孔雀舞の

変わりようは

オウム真理教に入った

「理系」や「インテリ」たちの

「変節」に似ている。

 

ここらへん、やはり遊戯王はよく描けている。

 

本田ヒロトが「バイク乗り」なのも

やはり時代的なものがあるだろう。

 

「バイク乗り」は今でもいるけど

それが強かった「印象」があるのは

やはりバブル世代だろう。

(盗んだバイクで走り出す~♪)

 

その時代の中で、主人公の遊戯だけが

「遊び」を通して内面世界との対話をし

そのことで「もうひとりのぼく」と

通じ合ってしまうのだから面白い。

 

気弱な少年、遊戯も

この漫画のストーリーでいくと

いじめられなければ

「もうひとりのぼく」との出会いは

なかったわけだし。

 

21世紀に「遊び」としての「アナログゲーム

ボードゲーム」が流行り始めている点からも

遊戯王」が世の中的になした「貢献」はある。

 

今、遊戯王リマスターを見返してみると

ところどころ「苦笑」せざるをえない

シーンがあるのは事実。

 

まぁ、でも見入っちゃうのは

カードゲームとは関係なしに

ストーリーに普遍性があるからなんだよな。

 

欅坂46と尾崎豊

今日は、超短いw

 

欅坂46に関して

サイレントマジョリティー」を

聴いていた時から感じていたけど

こりゃ、現代版「尾崎豊」だわ。

 

どこが?と言われても

ちょっと答えにくいのだけど

歌詞といい、雰囲気といい。

 

曲調が違うので

人によっては「似てないわ」

かもしれないけど

似てるよ。

 

あの平手友梨奈の姿振る舞いは

ちょっと久々にみた逸材。

 

私は「サイレントマジョリティー」

「不協和音」

そして今度の新作

「ガラスを割れ!」しか

聴いてないけど

この三つを何となく

聴いていると「尾崎だわw」

としか思わないのだ。

 

と、思って「風に吹かれても」を

聴いたら、尾崎っぽくなかったので

私の見立ては「はずれ」。

 

けど、今後も応援はしてまっせ。

 

www.youtube.com

 

(最初と最後らへんで平手友梨奈なセクシーな表情が見れます)

 

更新ペースは落としたくない宵の明星

先月は、一生懸命

毎日上げるようにしていたのに

今月に入ってから

急にペースが落ち始めた「Rigo」です。

 

分からんもんですなあ。

 

今までは自分の経験を書けるだけ

書いていたんだけど

二月辺りから「徒然草との対話」に

入っちまったから。

 

ただの「要約」&「現代語訳」記事は

書きたくないのよね。

 

できることなら、ぶっとんだ仮説も

考えながら記事を作成したいのだけど

そうすると時間がかかってしまって。

 

もう大変。(笑)

 

私の健康度を加味すると

運動はしているものの

「徒然対話」を書くと

(略してツレタイ)

思考力や、体力やエネルギーも

使うことになるし。

 

なかなか、アップできまへーん。

 

残るたよりは、根気と忍耐力のみ。

 

今の自分には「意地」でも

パソコン画面にくらいついて

毎日一記事アップしようとする「気力」がない。

 

たとえば、アフィリエイトビジネスのように

お金を少しでも稼げるように!

という思いがあるなら、話は別だけど。

 

「そこまでして・・・」となってしまう。

 

とか言いつつも、今日の記事のように

自分を奮い立たせる文章を書いているわけだから

自分はこのブログに多少なりとも「熱」を

持っているのだろう。

 

朝も昼も夜も、書けないことはない。(笑)

 

ただし「めんどくさい」のも事実。

 

習慣で、一番問題になるのは

「現代人が飽き性」だということ。

 

飽きて、めんどくさくなって

やらなくなる。

 

だからこそ、忍耐力や根気なのだ。

 

それは何も肩ひじ張って

パソコンの前に張り付け、ということではない。

 

ゆったりとした構えで

コツコツと記事作成に邁進していく。

 

そういうことがブログには求められる。

 

そんな「理想」が「習慣」になるには

まだまだ記事を作成していかないと

いかんと思って精進したいところですな。('◇')ゞ

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(視界が、ぼんやりしているw今の無意識)

徒然草との対話・13段の「ずれ」

朝が寒くて

起きるのが大変な

「Rigo」です。

 

朝、寒いよ~(´・ω・`)

 

そんなこと言ってないで

今日も徒然草やれって?

 

はいはい。やりますよ。

 

今日は打って変わって

13段。

 

ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、

こよなう慰むわざなる。

文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。

この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。

 

まぁ、これは簡単にまとめると

「読書のすすめ」だな。

 

読書をする中で

もう死んでしまった人を友とすることは

とても慰められることであり

その読書の中でも筆頭は

文選や白氏文集など。

 

現代人は「文選」など知らないし

読まない。

 

しかし、当時の教養ある人たちは

「文選」を読んでいた。

 

どういう本なのか気になったので

調べてみると

なんと2018年1月18日に

岩波文庫から発刊されていた。

 

なので今日、早速購入して

ぺらぺらっとめくって

読んでいる。

 

が、

が・・・

よく分からない。

 

まだ最初の2ページしか読んでいないのだけど

どうやら親に対する孝行精神を

説いているみたいで

ぴんとこないのだ。

 

これがたとえば、自分に対して

親身になってくれる人に対して

「孝行」するなら分かるのだけど

親に対して、孝行した方がいい、

というのは杓子定規すぎるような気が

せえへえんでもない。

 

中国思想の「孝行」って

そんな浅い思想じゃないと思うんだが。

 

私自身は松岡正剛さんが

千夜千冊で書いている定義と似ていて

自分の縁ある全ての人が

「孝行」の対象となる。

 

だから、友人や恋人

嫌いな人や嫌いな先生も

私にすれば「孝」の対象であり

孝とは畢竟

「自分を大切にすること」である。

 

自分を大切にするとは

自分の感情を大事にするということ。

 

嫌な人にはなるべく近づかない。

これも孝。

 

嫌な場所にはなるべく近づかない。

これも孝。

 

少し、定義が広すぎるかもしれないけど

これぐらいのイメージだと

仮説しないと

長い年月かけて伝わってきた価値観としては

あまりにも弱い。

 

というように、徒然草を読んでいると

他のテキストも交互に読んでいかないと

なんで「兼好法師」は

「文選」を「あはれなる」と言ったのかが

分からない。

 

ほとんどの人は、「あはれなる」を

味わい深いとかしみじみするという訳で

完結してしまい

それ以上を問わないのだけど

私はさらに先へ行く。

 

兼好法師は「どういう意味で」

あはれなると言ったのか?」

 

これがここで問われる「対話」である。

 

肝心なのは、兼好法師がひとりで書物を

読んでいる所ではない。

(そんなのは兼好法師が今更

念を押して言いたいことではない!)

 

そうではなく、なぜあはれなるといったのか

そのイメージの謎を解くこと。

 

そこが今回の段の肝。

 

私はこういう風にして一つのテキストを読んで

うなっているのを「読書」と呼び

そうでない、複数のテキストを

交互に読んでいくのを「交読」と呼んでいる。

 

私は昔は「読書」が多かったけど

こういう「交読」の「喜び」に目覚めてからは

「交読」するのに時間を費やしている。

 

時間はかかるけどね。(笑)

 

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徒然草との対話・201段の「ずれ」

庭の木にミカンを刺して

野鳥がくるのを待っている

「Rigo」です。

 

今のところ、太ったメジロ

拝見されている。(笑)

 

色んな鳥がくるといいんだけど。

 

さて。

 

今日も徒然草との対話をやるでよ。

 

今回は前回の続きで

「201」段。

 

退凡・下乗の卒塔婆、外なるは下乗、内なるは退凡なり。

 

前回の「200」段との関係性や脈絡は

つかめないけど

「事実」の話をしているという点では

似た段なのかもしれない。

 

ここで言っているのは、ある訳によると

釈迦がいたインドのある場所の話。

 

釈迦は、霊鷲山というところで

説教をすることがあった。

この段ではそこに行く途中にある場所に

王様が立てた「卒塔婆」の話をしている。

 

退凡は凡人を退けて入れないこと。

 

下乗は王様が乗り物を降りて

歩いていくこと。

 

意味として、退凡で言いたかったのは

この山で説教を聞くからには

身分は関係ないし

振る舞いや言動がひどければ

帰ってもらうということが

言いたかったのではないか。

 

下乗の方には、王様でさえ

歩いていく、との旨が述べられている。

 

釈迦の前では、地位や偉さは

関係ないのだ。

 

この二つを合わせて考えるなら

やはり、兼好法師のいた

当時の世の中の風潮は

この逆だったんだろう。

 

偉い人がおごり高ぶり

地位の高い人が傍若無人顔をしている。

 

こういう状況に

鼻持ちならなかった兼好法師

「怒り」や「情けなさ」や「悲しみ」を

この一行で読み取れる人は

ほとんどいないのではないか。

 

グーグル検索をしてもこの段に

言及している人は少ない。

 

「なり」を「である」で訳すなら

断定を言い表した

その人の見解になるし

存在の意味でとるなら

「にある」ととることもできる。

 

 

「にある」でとった場合

霊鷲山になる登る際

まず下乗し退凡かどうかを見極めることは

事実となる。

 

どちらでもとれなくはなさそうだ。

 

「である」がネットでは一般的な解釈であるので

私はこれに異を唱えておく。(笑)

 

おそらくこれは200段の「前段」と同じで

「こういうもんなんだ」では主観ではなく

「こういう事実がある」と解釈する。

 

私たちは普段「~である」調を使わなくなったこともあり

「~である」と「~がある」を区別できなくなったけど

ここはそう解釈することもできる以上

私は客観的な「事実」の意味として取りたい。

(あとで、他の段も読んでいたら

圧倒的に「なり」は「断定」が多いかもしれないので

間違っている可能性は多分にあるw)

 

今日の気づきは連体形の「なり」で使われる

「である」と「がある」には

違いがあることだな。

 

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(両手が反対になっているのも「陰陽」を表していたりするのか?)

徒然草との対話・200段の「ずれ」

少し間が空いてしまったけど

徒然草との対話は続けるよ。

 

今回は、200段。

 

呉竹は葉細く、河竹は葉広し。御溝に近きは河竹、

仁寿殿の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。 

 

これは、二種類の竹の区別を説明し

そのふたつの竹がどこに植えられているかを

述べている。

 

殿の説明に入る前に、一つの疑問がある。

 

なぜ、呉竹は、仁寿殿に植えられ

河竹は、清涼殿に植えられたのか。

 

ここが一つ目の謎。

 

私が考える限り、呉竹は中国渡来のものであり

河竹は日本古来のものである。(語呂がいいなw)

 

日本の伝統文化を大事にする人であるならば

日本古来の河竹のある方が

場所としては「優位」にある可能性が高い。

 

ウィキペディアの情報を頼りにすると

平安時代中期に宇多天皇に変わった際

天皇の日常生活の場所が

「仁寿殿」から「清涼殿」に変わっている。

 

注目すべきことに、この宇多天皇という人物。

 

日本史で習ったかもしれないけど

遣唐使」の廃止はこの天皇の時に行われ

こののち「唐」は滅亡する。

 

宇多のブレーンには、菅原道真がいたので

この廃止は、宇多天皇自らの考えではない

かもしれないけど

それでもやはり見事な政治手腕だとしか思えない。

 

こうやって、自分の国が受ける被害を

最小限に留める技術を昔の人は

持っていたのだと思うと。

(もし、遣唐使を廃止していなかったら

日本はどうなっていたのかは

分からないけど)

 

昔、自分も外国との交易を制限する

鎖国」に関心があった。

 

というのも、日本を知らない外国人が

日本に来て日本の風土や伝統文化を壊すことを

危惧したためである。

 

しかしその時は、江戸時代の「鎖国」の話に

限定して宇多天皇遣唐使廃止は

ほとんどアタマになかった。

 

ところが、今になって考えてみると

たとえば、アメリカが凋落し衰弱している時

このままでは日本経済が危うくなり

日本自体が沈没する可能性があるから

鎖国してみっか?」と進言する人が

全くでないのも違和感がある。

 

グローバル化は時代の流れであるから

それを変えることはできない、と言われている。

 

これはおそらくそうであると思う。

 

しかしながら、部分的鎖国のようなものは

できるのではないか。

 

今はオリンピックムードが漂っているので

鎖国」するなんて狂気の沙汰だと

思われるかもしれないけど

私は、いわゆる大都市と呼ばれるところで

「実験的」に「鎖国」をしてみるのも

いいんじゃないかと思っている。

 

別に「日本がのっとられる~」

とか考えている訳じゃない。

 

優先順位として日本に住んでいる人を

「先」に大事にしない政治というものに

価値があるのだろうか、ということが

言いたいだけである。

 

これは個人的なことであり

少しは共感してくれる人もいるかもしれないけど

それでも今のところ

マイノリティーな意見でしかない。

 

だから、オリンピックの熱に浮かされて

この考えは泡沫のごとく消える可能性は高い。

 

まぁ、正直気にしてはいない。

 

あくまでそういう風に「も」

考えられるというだけの話だ。

(話が飛ぶけど、ひきこもりって

あえて、情報を取らずに

自分の世界観を深めていくという点では

「ひとり鎖国」のようなものなのかな~

なんて思ったり)

 

話は脱線してしまったけど

もう一つの謎。

 

平安京内裏の謎めいた配置については

また機会があれば。

 

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徒然草との対話・豆はあなどれない

徒然草には

やはり何か

仕掛けがあると

踏んでいる「Rigo」です。

 

今日もアトランダムに

徒然草のページを

繰っている。

 

今日は二回目の記事なので

さらーっと書いとく。

 

紹介するのは、35段。

 

手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。

見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。 

 

これは、筆遣いが上手でなくても

遠慮なく文章を書いているのはよく

その反対に書くのを人に任せるのは

何か嫌な感じ~ということだ。

 

まぁ、ゴーストライターの世界は

今でも通用するけど

自分では書けないからといって人に任せるより

下手でもいいから自分で書け、と

言っているような気がする。

(現代流に解釈すれば)

 

まぁ、正直今回の段に関して言えば

今のところ、この箇所で違和感の

あるところはない。

 

それよりも気になるのが

最初にも述べた「陰陽五行」。

 

調べ学習をしながら、分かってきたのだけど

「木・火・土・金・水」の言葉は

徒然草の段にちゃんとある。

 

その中で「土」の文字が隠れている

68段に出てくる

「大根侍」の話が引っかかっていて

それはその後の段の「豆」の話も

そうなんだけど、ここらへん

八百万の神々」を私は感じる。

 

これが単に、ほんわかする

ユーモアの効いた一段とだけ

考えるのは浅はかである。

 

たとえば、69段では

炒った豆と焚くために使う豆殻が

喋り出す場面があるけど

まんが日本昔ばなし

データベースにあるように

九州の日向国には

「大豆の神様」というエピソードがある。

 

説明するのは面倒なので

興味がある人は

「豆 神様」とググってみるとよい。

 

この段の登場人物は

「播磨」の国の「姫路市」に

お寺を開いた人の話だけど

兼好法師の博学っぷりを見る限り

風土記」(地方について書かれた文書)

辺りも読んでいたのではないか。

 

しかもさらに遡ると

「豆」は日本神話に出てくる

食物起源神話として出てくる。

 

話は現代に一気に戻るけど

あの「ドラゴンボール」にも

「仙豆」というアイテムが出てくる。

 

今でもなぜか「豆まき」の風習が

残っているように

「豆」には私たちのあずかり知らない

「エネルギー」を秘めていそう。

 

村上春樹の「1Q84」にも

「青豆」という登場人物が登場するのは

どうでもいいことか。

 

いずれにせよ、この「豆」には

何かしらの謎が秘められているのかもしれない。

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(これはコーヒー豆。以前と比べると私はコーヒーをあまり飲まなくなった。)