ターマーエッセイ

一切が無関係

18禁という制約と、今はもうしない夢精

思春期の頃に

ぼんやりと思っていたことがある。

 

それは何かというと

「どうして、周りは18歳にも

なっていないのに

アダルト本を買っているのだろう?」

 

根が真面目で純粋だった私は(笑)

そういう思考をしていた。

 

そういう意味では

よくある哲学の疑問。

 

「人はなぜ生きるのか?」

「人生とは何なのか?」

のような発想とは逆だ。

 

常識を無視し

ルールを破りにいくのではなく

その〈今〉ルールを根源的に

考えていく。

 

今回の話でいえば

「18禁」という制約が

意味するところは何か

ということである。

 

私が中学生の頃はまだ

個人のインターネットも

買えなかったし

スマホも当然ない。

 

当時

インターネットでやっていたことは

2ちゃねる関連の

面白サイトを見たり

脱衣ブロック崩しなどを

よく見ていたぐらいだ。

 

一時期大ハマりしたのは

「てーるずばとる」という

チャット型の多人数仕様の

狩りゲーム。

 

これはいずれ機会があれば

話そう。

 

そこでやっていたのは

動画を見たり同人誌を見たりしながらの

マスターベーションではない。

 

隠すまでもない。

 

私は高校生になるまで

マスターベーションをしたことがなかった。

 

高校生になってから

やった。

 

この後、私は「過剰な性欲」に

悩み苦しむことになるのだけど

それは今となってはいい思い出である。

 

この身体に不似合いとも思える

「性」の欲望。

 

それはある意味

低身長で悩む男と同じ。

 

あるいは

おっぱいが小さくて悩む女と同じく

「一部の人からがっかりされる」ことを

前提とした身体の成長だった。

 

その苦しみや疲れから

よく夢精をした。

 

村上春樹の小説には

夢精をする主人公がよく出てくるけど

まさにそれである。

 

くたくたに疲れて

思い悩んで寝ると

だいたい私は「夢精」した。

 

通算夢精数は、おそらく

今までで100回は超えるだろう。

 

その夢一つ一つを

覚えている、わけがない。

 

性的な夢であることは間違いないが。

 

というように

私は「性」という問題は

意外と悩みの一つになるえると

思っている。

 

中には、性的な抑圧環境下に

いる家庭もあるだろう。

発達障害もその一つ?)

 

クリスチャンをこじらせた感じの人は

そういう傾向もある。

 

そういう人たちがいたとしても

「今更何を18禁だって?」

と思う人も少なくないだろう。

 

私も最近までそう考えていた。

 

しかしある時見方が変わったのである。

 

それは自分の「器」(キャパシティ

と言い換えてもいい)が

未成熟な段階で

「性的な」ものに触れると

どうなるかである。

 

自分の知っている人を見た範囲でしか

いえないから、例外もあると思うけど

意思疎通レベルの

コミュニケーションで止まって

付き合う人達の多くが

破局を迎えた。

 

どうして破局を迎えたのかは

分からない。

 

推測でいうならお互いに

「異性」を「性的」に見るあまり

(かっこいいとか、やりたいとか)

コミュニケーションを

疎かにしてしまった結果ではないか。

 

とある言語学者は

ある動画で

「近すぎて見えない」

ということを言っていたけど

(その動画では別の意味あいだけど)

 

恋愛=心の病だとすれば

キャパシティが未成熟な段階で

付き合った二人が

コミュニケーションを通して

「すれ違って」いくのは

お互いを「よく見すぎている」

という点で言えば

当然なのかもしれない。

 

そういう意味では

逆の観点もあるだろうけど

(たとえば、ポリネシアのように

逆に小さい頃から性に触れる環境もある)

やはり、18歳ぐらいになるまでは

得難い、色んな経験を積んで

コミュニケーションの可能性を試して

それから「異性」関係に

入っていった方がいいのではないか。

 

何も、異性との関係を全くしない

ということではないんだけど

興味本位で性に興味を持ちすぎ

それ以外のものが見えなくなると

あとで大変になる、と。

 

いわゆる出来ちゃった婚であったり

クラスの同級生同士で

付き合っていたら

ゴールイン!(なんか、ズームインみたいだなw)

 

その時はお互いに「これからよろしくね♡」

という和気藹々ムードかもしれないけど

その後は・・・となる可能性何パーセント?

 

「すれ違い」のことを考えた時

「あの時、好きだった子に告白しないで

よかったのかも」と思うようになった。

 

ちなみにその子は

今でも夢に出てきます。

 

(下のボケては、本当は夢精してないけど

夢精した夢を見て目覚めた時の感覚に近いw)

 

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「どうでもいいけど」という前置きが、コミュニケーションのジレンマを生む

少し前に流行った

お笑い芸人のギャグで

「どうでもいいで・す・よ」

というものがある。

 

エンタの神様全盛期の時に

だいたひかるという芸人が

作ったギャグだ。

 

個人的には「よく分からなかったし」

暗くて、ジメジメしていて

何とも面白さを感じなかったという話は

さておき。

 

最近この「どうでもいいけど」の精神が

多くの人の生き辛さに

つながっているのではないか

と思うようになった。

 

たとえば、習慣化。

 

~をやって習慣化したい

という思いがあっても

無意識のどこかでは

「どうでもいいか・・・」

という気持ちがある。

 

「何をいまさら、努力する必要があるんだ」

と生き辛さはそのままにして

新しい習慣を作る事はやめてしまう。

 

そして年々生き辛さは余計に悪化する。

 

そういう場合もある。

 

あるいは、コミュニケーション。

 

私自身はこちらの方が問題だと

思っている。

 

コミュニケーションの成長において

「知らない話」を聞いたり

「自分の興味のない話」に興味を持つことは

大事だと思う。

 

しかし、生き辛さを持っている人は、

知らない話=関係ない、であったり

自分の興味のない話=興味持ってどーするの?

という等号式で結んでいる。

 

自分の世界=縦穴は深い人が多いのだけど

それ以外のことはよく知らない人が

今の私の身近には多い。

 

私はどちらかというと

雑食なので、色々な人が

興味を持っているものに

興味を示すのだけど

それはあくまでネットに

落ちているものを見たり

読んだりしているだけであって

実際のリアルの人間に興味を持ったことは

ほとんど今までなかった。

 

今は、意識して目の前にいる人達の

興味を持っているものに興味を持つように

なったのだけど(自分が興味がなくても)

意識できるようになるまでは

難しかった。

 

なんせ、お天気の会話でさえ

「めんどくせー」と思っていた人だ。

 

そういう人が自分の興味のない話に

興味を持つよう話をするというのは

難しい事だろう。

 

どこかで、コミュニケーションに

「どうでもいい・・・」と

感じていたんだと思う。

 

知らない話はどうでもいい。

 

自分の興味のない話はどうでもいい。

 

というかコミュニケーション自体が

どうでもいい。

 

そういう思いが無意識に

あって、一方では自分のしたい

コミュニケーションには飢えている。

 

これは、コミュニケーションのジレンマ

あるいはコミュニケーションの飢餓状態

とも言えるだろう。

 

現代はSNSが発達していることもあり

画面上で、共通の話題の合う人を

見つけるのは難しくない。

 

しかしその先の本当の人間関係になると

生き辛さを持った人は

そこまで行けない。

 

そこもまたジレンマになる。

 

整理しよう。

ジレンマには二つある。

 

①「自分のしたい話」がありながらも

人の興味のない話を聞くつもりはない。

 

②「SNS」では交流ができるけど

実際の対人関係には踏み込むことができない。

 

この二つが、前の自分にはあったので

相当、生き辛かった。

 

今は、①番がある程度緩和されたので

生き辛さは減ってはいるものの

SNSからのリアルな対人関係には

踏み出せないので

ここはもう少し時間がかかることだろう。

 

最後に、私が気になっている言葉を

説明して終わろう。

 

それは「ノイズ」という言葉。

 

SNS、とりわけツイッターのようなものが

流行してから数年。

 

ネットでは「ノイズを見ないため」

SNSと距離を置くという人が出てきた。

 

SNSと距離を置くのはいいのだけど

それを「ノイズ」という表現で

切り取るのは少し問題ではないだろうか。

 

だって、仮にも

そのノイズを打っているのは

人間なわけだし。

 

その当人が

暴走バイクよろしく

騒音をぶち鳴らしているとは

正直思えない。

 

ほとんどの人が

先ほど言った

コミュニケーションのジレンマに

悲鳴を上げているのだと思う。

 

それを「ノイズ」という言葉に

置き換えてしまうと

「悲しんでいる」人たちがいることは

「ない」ものとされてしまう。

(ノイズには悲しみという意味がないため)

 

無視された人たちは

どうするかというと

「正論」をぶち上げたり

「批判」・「皮肉」・「冷笑」と

いったつぶやきを残しやすい。

 

もちろん、社会の多数派の論理は

生き辛さを持っている人達を

圧殺する力があるので

生き辛さを持っている人が

社会の側に訴えかけても

相手は「沈黙」しているのだから

どうしようもない。

 

これが書いていて思ったけど

第三のジレンマ。

 

生き辛さを社会に訴えても

社会が沈黙しているという状況。

 

これら三つが(もっとあるかも)

人生「どうでもいい」の

本質かもしれない。

 

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入境家&流饒家としてのブリッジウォーカー

タイトルがすごく

怪しげな感じになっていますが

特別、変な記事を書くつもりは

ありません。

 

最初は「宗教家としての

ブリッジウォーカー」という

タイトルで書こうと思ったんですが

それだとちょっと

かしこまって

「吾輩は偉いのだ!」

となりそうだったんでやめました。(笑)

 

で、このタイトルになりました。

(こっちもめんどくさそうw)

 

一言でいうと「歩く」の話です。

 

入境(にゅうきょう)というのは文字通り

「境」に入るということで

色んな「境目」に入っていくことです。

(ちなみにある本によると

「さ」のつく地名は

霊的なスポットが多いとのこと。

岬(み・サ・き)など)

 

検索をしていた時に、境目のキーワードを

変える事も充分な入境家です。

 

私はそういう意味で、インターネットで

検索している人とというのは

ほとんどの人が「入境家」だと

思っていますけど

あんまりこういう言葉は

使われないね。

(何たって、俺も今日初めて使ったのだからw)

 

そして、もう一つが「流饒」(りゅうじょう)。

 

饒は饒舌の饒。

 

ゆたかで、有り余るほど多いという意味。

 

こちらは特に意味はなし。(笑)

 

というか意味が思いつかなかった。

 

なので、本題に入りましょう。

 

最初の方で今回のテーマは「歩く」話だと書きました。

 

他の人が歩いているかは置いておくとして

自分は今、猛烈に歩いています。

 

猛烈にと聞くと

すごいペースで、すごい距離を

歩いていると思われるかもしれませんが

さほど、歩いてはおりません。

 

 

じゃあなんで猛烈にという言葉を使ったかというと

「速歩き」を、ウォーキングに取り入れているからです。

 

今までウォーキングというと

自分の中ではのんびり歩くスタイルが

確立されていたのですが

この動画を見ると

速歩きにもメリットがあります。

 

www.youtube.com

 

筋肉を鍛えたり

骨を強くしたり

関節の動きをよくしたりと。

 

「なるほど!」と思った私は

歩く際、速歩きを取り入れてみました。

 

使っている筋肉の違いは

分からないのですが

副交感神経が働き

リラックスする「遅歩き」とは

違うのは何となくわかりました。

 

それを知ってから

悲しいことがあったり

落ち込んだりすると

「猛烈に歩き」

今日はいらいらしているな

というときは

「ゆっくりと歩く」ことにしました。

 

最初は、ランニングでもいいと思ったのですが

初日一日目にして

「ランナー膝」を発症して

ランニングはまだ早いと思ったので

「歩いて」います。

 

で、場所はというと

広い公園や、歩きやすい場所がないので

まぁ、無難に「橋」の上を歩いています。

 

ちょうどというか

偶然、歩くのに適した橋

(自動車の排ガスはがばがば吸う

デメリットを除けば)

が、ありまして

そこを夕方と夜に

二回ずつ歩いています。

 

今はまだホメオスタシスがきてないので

大丈夫ですが、そろそろ歩いてから一週間が

経つので、そろそろ引き戻しがくることでしょう。

 

昔は「橋なんか歩いたって

くそ面白くもねえよ」と思ってたんですが

今は意外とそうでもありません。

 

生き辛さを持っている人にとって

「外の空気」を吸うことは

免疫力を低下させないという点で大事です。

 

それよりなにより

橋を歩くと

夕焼けや夕暮れがきれいなため

自然と一瞬、一体化できます。

 

あるいは、夜歩くと

電灯の光がキラキラと

輝いていて思ったより

綺麗なのです。

(都心の「電気」のついた

ギラギラの光は苦手だけどねw)

 

ブリッジウォーカーとして改心

した私は、この橋の上を歩ける間は

当分、歩くことになるでしょう。

(自分でつけといてなんだけど

このブリッジウォーカーって

ネーミングセンスいいな。)

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ためらいと言い過ぎからくるツイッター離れ→寝たきりの世界へ行く前に

私は

よく言葉を

ためらう。

 

昔からそうだった傾向があるし

このブログでも比較的

まだ言葉をためらっている。

 

本来であれば

ブログは、自分の中にある「情報」を

発信する場なのだから

ブレーキをかけるのは

もったいないと思ってはいる。

 

しかし「人に嫌われたらどうしよう・・・」

という思いが空回りする。

 

そうして、沈黙の淵に沈んでゆく。

 

これは意外と「当事者界隈あるある」である。

 

ネットサーフィンしていると

たまに当事者の人が発信しているのだけど

「人に嫌われたらどうしよう・・・」と

思うあまり、ブログの内容が

「縮こまっている」場合がある。

 

女の人は顕著。(逆に男の人は

自分の嫌な事をたわ言として

書いている傾向にある)

 

あれでは、ブログを

見にくる人も限られるだろう。

 

あるいは「過激な言葉」を

言っている人を真似して

同じように真似している人もいる。

 

かつての私はそうだった。

 

大学時代の先生が面白い先生で

そういう「炎上傾向」にあったので

自分も真似したことがある。

 

しかし「なぜ先生はこういうことを言うのか?」

という点について考えが

及ばなかったため

自分は、ただ暴言を吐いて

自分を傷つけ、人を傷つけ

ツイッター

一時期やめることになった。(笑)

 

おそらく、人を傷つけてしまい

人を傷つけている自分が許せなくて

自分を傷つけてしまう傾向にある人はいる。

 

これは言い方を変えるなら

「暴言拷問式」。

(話違うけど「アミノ式」ってのは

昔流行ったよね?w)

 

江戸時代の刑罰にあったそうだけど

とげとげの床に座って

脚に石板を置く

想像しただけで痛くなるような

拷問がある。

 

ある意味これに近い。

 

これは刑罰だから違うかもしれないけど

感覚的には同じ。

 

たとえば、ツイッターという

茨のとげのあるような環境下で

(最近はましになってきているという

意見もあるけどねw)

動けば、とげによって

体が傷つくように

手塚治虫の漫画「ブッタ」では

苦行をするブッタが茨のとげに入るシーンが

散見される)

そういう環境下で

「嗚呼!痛いよ!!!

助けてくれ~!!!」

と言っても、痛いのは当然なのだ。

 

とげだらけなのだから。

 

さらに、何をとちくるったかしらんけど

そこで、もっと動けば

その茨のとげは食い込むばかり。

 

「拷問式」の例でいうと

とげとげの床に座って

さらに石板を脚の上に置くようなもの。

 

そりゃ、悲鳴も出るし

言っちゃいけない言葉も出るだろう。

ツイッターでの自分の暴言を

正当化しているわけではありません)

 

当の本人はそこが

茨のある場所だとも

拷問場だとも思ってないから

余計にきつい。

 

「人とつながりたい」と思って

「いい場所だろう」と思って

ツイッターに入ってきたは

いいものの

そこで待っていたのは

暴言・愚痴・虚言・不平不満・泣き言

身体の不具合の症状など

何かにかけて

自分の境遇を嘆く「ばかり」の人

だったという事実。

 

さらにいうと

本人が「そこそこ居心地のいい場所」だと

思っていた当のリアルの環境も

次第に「息苦しい場所」へと

変化していくのに無自覚だと

ネットの世界もリアルの世界も

「ツミ」(ゲーム&将棋用語)

どうしたらいいか分からなくて

悲嘆に暮れるという結果になる場合がある。

 

そこまで「ツム」前に

自分の人間関係を見直したり

作り直したりすることができれば

こういう状態にはならないと思う。

 

ただそうはいっても

多くの人は(私も)

自分が「痛い目」を見ないと

気づけないこともある。

 

で、ツイッターの話に戻ると

月並みな結論だけど

生き辛さがある人は

「一旦、ツイッターから

離れた」方がいい。

 

当時の私は、大学から帰れば

ツイッターを何tweetか

必ずするという生活だった。

 

誰かが見ている訳でもないのに。

 

このサイクルに入り

のちのち「過激な発言」を

言う出す前に

もっと大学時代に「失敗」を

たくさん繰り返していれば

よかったのにと思う。

 

これは私が大学で得た一つの学びであり

後悔である。

(これは前も書いたような気がする)

 

大学時代

ハーモニカ、オカリナ、バレエ

カポエイラ、座禅、キリスト教

ウクレレなどなど様々な趣味に

手を出してみた経験はある。

(どれも長続きせぇへんかったけど)

 

でも肝心の「対人関係」「人間関係」には

踏み込まなかったので

ただ一人で「ああ~なんで続かないんだ」

と嘆いて、気づきの得ないまま

本の世界に逃避していた。

 

調子を崩してから

活字量の多い本が

読めなくなったこともあり

逃避するものもなくなり

生の欲望もなくなり

寝たきり青年」になった時期もある。

 

今はそこから這い上がって

人と会って「それなり」に

話せるようになった。

 

最近も、発達障害

当事者の「茶話会」に出て

30代後半~50代ぐらいの

お母さん方三人とお話をした。

 

「まぁよくぞここまで回復したなw」

と自分を褒めるばかりである。

 

本当は「ためらいとカタカナ言葉」

という題で書いていたのだけど

じぇんじぇん違う方向に行ってしまった。

 

やはり自分の過去の話に戻るところを

見るあたり、まだまだ

「生き辛さ」はあるんだろうと思う。

(当たり前だけど)

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「希望がないことが希望である」

「力を抜けば力が出せる」

 

「息を吐けば息が吸える」。

 

これらは、スポーツ経験のある人なら

分かると思う。

 

ガチガチに力が入れば

思うような力は出せないけど

ゆるませると、ちゃんと力が出る。

 

あるいは、息を吸おうと

意識するあまり、吐けてないと

酸素があまり入ってこない。

 

それよりも、きちんと

吐いていくことで

息が吸えるようになるというのは

坐禅の「調身・調息・調心」

の考えとしてある。

 

そういう考えで行くなら

あるいは

「ピンチはチャンス」ともいうように

自分の思考問題は、逆説的な思考をすることで

解決するのではないだろうか。

 

たとえば「悩んでいる人」に対して

ふつうなら、悩んでいるから

アドバイスをしたくなるところ。

 

でも一方で「悩みたいから

悩んでいるんだから

放置しとけばいい」という考えもある。

 

ケースバイケースではあると思うけど

この考えを持っておくと

人もそうだし、自分の考えが

ぐるぐる回っている時も

「ああ、悩みたいんだね」

と自覚できる。

 

哲学をかじっているとか

一つの事に集中して

寝食忘れている人は別として

自分たちの日常は

ちゃんと、食事・睡眠・排泄・運動という

悩んでいたら、できない生理現象がある。

 

もちろん、摂食障害とか

不眠とか便秘とか

重い障害とか

そういうこともあるから

一概には言えないけど

私たちの日常の中には

悩まないでいい時間が

あらかじめセットされている。

 

そういう事実を観ていると

悩むことがバカらしくなる。

 

悩んでいるより、悩まない時間を

自分で作った方が

いいじゃないかと思えてくる。

(仏教でいう「身口意」)

 

とはいっても、悩んでいる人達は

いるだろうから、少し自分なりに

考えてみたい。

 

私の経験でいうと

悩んでいる人達は「希望がない」。

 

それは、事実として言っているのではなくて

本人が「希望がない」と思っている。

 

「絶望」している人もいて

一縷の希望を見たくて

もがいている人もいるだろう。

 

ただ、そこで考えたいのは

そんな簡単に「希望」が見つかったら

それこそ、ゲーム的にはつまらなくないかということ。

 

こういうとあなたは

「ハードモード」の人生が

いいんですか?

という人もいるだろう。

 

いやいや。(笑)

 

そんなの好んで選ぶ人は

そう多くない。

 

私だって、楽したいけれど

人生というRPG

そういうようにはできていない。

 

環境・生まれ・両親

人間関係・境遇。

 

あらゆる設定は

もうひとりの僕が

仕掛けている。

 

そうであるならば

いちいち「希望をなくした~

もう無理ぽ(ノД`)・゜・。」

と嘆く必要はない。

(嘆きたい時もあるだろうけど)

 

だって設定がきついんだから

「希望がない」のがデフォルト。

 

だから私の現時点で考える

「希望」とは「希望がないことが

希望である」。

 

これは人生は「苦」しかないと

いった人の発想と似ているかもしれない。

 

今の私は、希望というのを安易に

考えていない。

 

「ここにいけば人生変わる♪」

みたいな依存的楽観思考はしていない。

 

それよりも、実際に新しく

出会ってしゃべった人との

「関係」を大事にして

それを繰り返す。

 

その時は「この人との関係

続くだろうか?」と希望がなくても

自分の出せる範囲で全力を尽くし

コミュニケーションをする。

 

以下、エンドレス。

 

たとえ、その人からの

リアクションが薄くても

コミュニケーションがとれる「相手」なら

その人を大切にする。

 

それって、希望あるんじゃないですか?

と思った人。

 

その通りである。

希望を持てるのも絶望するのも

自分の「設定」あってこそ。

 

もし、イージーモードで

ゲームが始まっていたら

「希望も絶望も」味わえない人生を

送ることになったのだから。

 

それはそれでつまらない。

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現実というのは常にひとつきりです

これは村上春樹

「1Q84」の

最初の場面に出てくるセリフだ。

 

私は、この本を

繰り返し読んだ割に

このセリフの意味が

よう分からんかった。

 

現実というのは常にひとつきり?

 

はてな(・・?

 

最近そのセリフについて

考えていると

「もしかしてこのことなのかな?」

と思うようになった。

 

つまりはこうだ。

 

目の前に「現実A」が存在するとして。

 

その現実は、自分の盲点や先入観も含め

色んな現実がある。

 

たとえば

どこかへ移住しようかとか。

シェアハウスに一度は住んでみたいとか。

何なら、海外へとか。

 

選択肢は色々ある。

 

しかし、その中でどれかを選んでしまえば

それは自分の「現実」となり

それは自分の「経験」として

確固たるほど

動かせない「現実」となる。

 

「人生は選択の連続」と言った芸術家が

いるように、選択が自分たちの人生を作っている。

 

おそらく、村上春樹

言いたかったことは

この「当たり前」のことなのではないか。

 

「選択」の積み重ねが

今の「現実」を作っている。

 

それは、「ひとつきり」。

 

だから、あの時、ああしとけばとか

あの時のことが頭から離れないとかは

実は、現実を生きてない人の言動なのだ。

 

なぜなら、あの時ああしていた現実は

今、「ない」のだから。

 

今、「ない」ことを

ああだこうだ、考えても意味がない。

 

これは言うなれば

「昨日、ししゃもを食えばよかったのに

なんで、おれは食わなかったんだ・・・」

「ししゃもを食べなかったことが

頭から離れない・・・」

「ししゃも・ししゃも」

と考えているのと

何ら変わりはない。

 

食事は「選択」とは違うという人もいるかもしれない。

 

でも、カップラーメンを毎日食っていたら

その人が不健康になっていく可能性が高いように

食事でさえ「選択」の一つなのだ。

 

食事が「からだ」を作るというし。

 

だから、今の置き換えは

あながち的を外してないように思える。

 

あなたが、今「現実」で悩んでいるのは

悩みたいから悩んでいるのであって

本当は、そういう時間は

もったいないのである。

 

ほとんどの人は、ししゃもが食えなくても

そんなことは気にならない。

 

また食べればいいか、となる。

 

人の生き方の一番の難しさは

選択したら、もう引き返せない

ということにあるのだと思う。

 

そこが、ししゃもを食べることとの違い。

 

ししゃもは、また買って食えばいい。

 

しかし、人生はやり直しが

きかないこともある。

 

たとえば、もう亡くなってしまった

おじいちゃん・おばあちゃんとは

話せない。

 

また甦るなんてことはない。

 

モノでもそうだ。

 

一度壊してしまったり

壊れてしまったりすれば

復元するのには

時間がかかる。

 

論理的に言えば

「人との出会いを大切に」

「モノを大事にしよう」

というのは

そういう観点からも

重要だと思う。

 

と理詰めで考えるところが

自分らしいといえば自分らしい。

 

今、人の選択と

ししゃもを食う事との違い

を明らかにしたけど

ほとんどの選択はやり直しがきくと

私は思っている。

 

たとえば、ゲームで考えてみれば分かる。

 

どんな場面でも緊張を強いられる

「選択」であるならば

そのゲームは楽しいだろうか。

 

そうではない。

 

たまには、まったりとゆるい「選択」も

あるから、ゲームは楽しい。

 

前回もお伝えしたように

人生がRPGのようなものであるなら

そういう観点にも気を配っている(笑)

ゲームマスターがいるはずなのだ。

 

だから、人生の選択は大きく分けて二つある

と思った方がいい。

 

一つは、もうあとには引き返せない選択。

 

もう一つは、ゆるい選択。

 

割合はどうだろうか。

よく選択の積み重ねが

今の自分を作っている

なんていうけど

こっちのゆるい選択は

さほど、気にしなくていいような気もする。

 

それこそ、少年ジャンプを買い

ワンピースだけ読む人もいれば

ハンターハンターを読む人もいる。

両方読む人もいる。

 

これは紛れもなく「選択」なのだけど

この「選択」の違いが、人生に強烈で

決定的な要因になるとは思えない。

 

「両方読む人は、両方の人と

コミュニケーションがとれるから

一番いい!」とも言えないような気がする。

 

セーブは、こまめにと言うけど

選択は、もうちょっと考えないで

やっちゃってもいい気がする。

 

特に、小さな選択で

いちいち躓いている人は

「それぐらいは、気にするなw」

と言いたい。

 

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エンカウントシステム

今日は人生の謎について

話をしたいと思うじょ。

 

最近でこそ、よく見かけるようになった

「人生はRPGのようなものだ」説は

どこまで浸透しているのだろうか。

 

そこんとこはよく分からないけど

私はこの説が少しずつ

腑に落ち始めている。

 

中でも、このRPGを仕組んだ

「もう一人の僕」(この言い方には

問題があるかもしれないw)の

人生設定の一つである

エンカウントシステム」は

舌を巻いている。(マジかぁ!と)

 

一人一人、同じ人生を歩めない

原理的な理由は

この「エンカウントシステム」にある。

 

エンカウントというのは

ゲーム好きの中では有名な言葉だけど

要は、ある一定の確率で

何かに「出会う」システム。

 

ドラクエでいえば、メタルスライム系。

 

ポケモンでいえば、伝説ポケモン

出現率の低いポケモン

 

こういう「出会い」の要素が

ゲームにはよく「仕込まれている」のだけど

人生でも実は変わらない。

 

道を歩いてたら、引き殺された

ザリガニの死体を

発見したとかというのも、エンカウント

(実例なんで、出してみたw)

 

道を歩いてたら、ハンカチが

落ちていたというのも、エンカウント

 

道を歩いてたら、タバコの入った箱が

無造作に落ちていたというのも、エンカウント

 

今挙げた例は、たまに見かける光景だ。

 

それらは、偶然のように見えるかもしれない。

 

リアルに感じるかもしれない。

 

しかし、どれも「もうひとりの僕」が

この人生をリアルに経験してもらうために

仕込んだ「設定」なのである。

 

引きこもっていた時期は

よく分からなかったけど

(今思うと、この時でさえ

エンカウントがあったことに気づく)

色んなところに出歩くようになってからは

「なんじゃこれ?」

と思うことにしばしば遭遇するようになったので

これは「エンカウントシステムだな」

と認識するようになった。

 

本当、よくできてます。

 

「今日は、何事もなかった!」

という日ももちろんあるんだけど

一方で

「今日はやたら、変わった人に出会うな」

という日もある。

 

本当、よくできてます。

 

つくづく「人生はポケモンである」

という自分にとっての命題が

真実味を帯びてきた。

 

人を育てたり。

 

人としゃべったり。

 

人と競ったり。

 

人に出会ったり。

 

人と別れたり。

(人をポケモンに置き換えてねw)

 

ポケモンだけがゲームではないにしろ

やはり、私の中ではポケモンこそ

至高であり、ゲームだ。

 

ポケモンという軽い言葉に

騙されてはいけない。

 

これはおそろしいほど

人間の世界をえぐったゲームである。

 

そしてほとんどの人が

ポケモンブームとは何だったのか」

ポケモンは何を私たちに経験させたのか」

について考えていない。(たぶん)

 

私見では、ポケモンが成功した一つの要素とは

「育成」である。

 

この「育てる」。

 

しかも自分ではなく

(自分はあくまで主人公)

人を(ポケモンを)

育てる、というところに味噌がある。

 

ピカチュウという

自分とは相容れないポケモン

育てていくサトシの設定も

自分に似たポケモン

最初の三匹から選ぶ設定も

どちらもあり。

 

どう育っていくかは

分からないけど

育つ喜びはひとしお。

 

この「育成」を「楽しむ」心持ちは

本当の子育てや「教育」をする心持ちと

同じである。(違うという人もいそうだろうけど)

 

この、育成→成長のループは

人間の宿命である。

 

よきにつけあしきにつけ

みな誰もが人を「育成」をしている。

 

それを「楽しめている」か

そうでないかの違いなのである。

(反面教師というのは

そういう意味では、育成を

「楽しめない」で

人生を投げてしまった人たちのこと)

 

「分からない」から

育成を投げやりになるのではなく

「分からない」から

育成は楽しいのである。

 

たとえば

イーブイというポケモン

何かしらの「石」を与える前に

どういうポケモンに進化するか

分かったら、喜びは半減する。

 

そういうもん。

 

その人の進化は

育てる側が決めるものではない。

 

いつの間にか

本人が進化してるもんなのである。

 

だから、育てる側は

せっせと、育成に励めばいい。

 

植物でいえば、水やり。

 

ポケモンでいえば、経験値を積むこと。

 

人間でいえば、色んな出会いや

コミュニケーションをすること。

 

私は、そういうことだと思っている。

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