ターマーエッセイ

一切が無関係

「この先どうしたらいいか分からない」と顔に書いてある人

いる。

 

こういう人達が。

 

中にはもう既に「悟ってます」みたいな顔で

悪い意味で自分の人生を

諦めている人も多いけど

一方で

「この先どうしたらいいか

分からない」と顔に書いてある人達もいる。

 

割合としてはどうなんだろう。

 

前者が6で後者が3?

(残りの1割は人生を謳歌している人達)

 

いやよく分からない。

 

とにかく、どちらの人にせよ

見ていても興味がもてない。

 

病院の患者の人の言葉で

「あとは死ぬだけだよ」

というブラックユーモアを

遠くから聞いてつい笑ってしまったことがあるけど

おそらく

自分が見かける人たちも

内心ではこんなこと考えているのかもな。

 

自分が調子を崩した時は

こういうことを思考していたから

というのもあるけど。

 

「笑顔は遠くから見ても認知できる」

という妻夫木聡さんのCMにもあったように

なかなか調子がよくないと

「笑顔」って作れない。

 

反対に「この先どうしたらいいか分からない」

という表情は調子が悪ければ

自動的に作られる。(笑)

 

つまり、私が見ている

「この先どうしたらいいか分からない」

という人達は「体調不良」という説が

仮説できる。

 

現代人の多くは「病気だ」という人達もいるけど

もしかするとそれよりも

「体調不良」説の方が

「病気」とレッテルを貼るより

いいのかもしれない。

 

「この先どうしたらいいか分からない」

という体調不良。

 

これが悪化すると

「この先どうにもならない」

という病気になる。

 

ということは、現代人の多くは

「病気」の一歩手前の「体調不良」で

苦しんでいるということになる。

 

ところで、一体彼らは何が

「わからないのか」。

 

おそらく本人の中では

明確になっていない。

 

もっというと

「どうしたら?」という

心理学でいう所の

「Doing・Being」の

「Doing」に焦点を

当てている時点で

その問いかけでは

うまくいかないと思う。

 

だから、イメージとしては

掴みづらいかもしれないけど

本当は

「この先どうしたらいいか分からない」

ではなく

「この先どうあればいいか分からない」

という問いかけに持っていく必要がある。

 

多くの努力信仰者はこの問いかけが

できないから努力をやめることができない。

 

この問いかけは心理学でいうところの

「being」。

 

自分が感じたこと・思考など

観ていくこと。

 

あるいは自分の「幸せ」を追求すること。

 

こういうことを置き去りにして

やれ、学校のための勉強だとか

やれ、仕事のための資格勉強だとか

やれ、コミュニケーションのためのセミナーだとか

に行っても

悩みは変わらない。(たぶんw)

 

私自身は

自分自身を「観る」ワークをやるようになってから

1年が経過した。

 

この間効果が出ないと嘆き

疑念・疑問を感じたことも

多々あったけど

最近はそこを脱している。

 

着実に、確実に「観る」という

ワークをしている。

 

そうしている内に

「この先どうにもならない」

あるいは

「この先どうしたらいいか分からない」

が自分の「思考」だと分かり

それで悩むことがなくなった。

 

「観る」ワークをやることで

そういう状態から抜け出せるようになった。

 

私はまだ「観る」ワークをして

1年弱なので

これからまだ知らない世界を

観ることになるのかもしれない。

 

期待せず、愚直に歩いて。

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前世、石田三成の下で関ヶ原を戦い死んだ説と夢天秤の話

小学生のころから

こういう夢を見るようになった。

 

場面は暗闇。

 

自分がいる。そして大勢の人がいる。

 

自分は一方の秤に

大勢の人はもう一方の秤に

かけられる。

 

次の場面は興味深い。

 

いきなり「○×ゲーム」が行われ

自分は「×」をつけられ

大勢の人は「○」をつけられる。

 

普通の○×ゲームのルールなら

ここでゲームオーバーするのは自分。

 

しかしこの世界(夢)では

それが通用しない。

 

自分の方が×をつけられているのに

天秤の秤は自分の方が下がり

自分は第二ラウンドへ進んでいく。

 

イメージとしてはさらに

下へ進んでいく感じ。

 

そしてまた同じことが起き

自分は×をつけられているのに

ゲームクリア(?)してしまう。

 

それが4・5回続いたあと

そのゲームは終わり

最後は自分と大勢の人が

宇宙らしき場所で

浮いている(寝ている?)シーンで

その夢は終わる。

 

当時見た時は「な、なんだこれ・・」

と心臓バクバクだった。

 

正直、この夢が何を意味しているか

わからなかったし

今でもわからない。

 

一時期

スピリチュアルな話題に

関心を持った時

「カルマの最終ランナー」説があることを知る。

 

そのブログによれば

今のあなたは

前世、そのまた前世の

「体験できなかった」ことを

体験するために現れたという。

 

当時のブログを読み返してみると

「未消化な人間関係」を

体験した人達が

前世・前前世にいたのではないかと

書かれている。

 

つまりその人達は

自分の未練・執着・後悔などで

自分が生きた時代に

幸せな人生を歩めなかったということだ。

 

夢天秤の話でいうと

当時「×」(または罰)をうけ

死んでいったのかもしれない。

 

ここまでの話は以前に書いたのだけど

あらためてスピリチュアルな世界の

「前世」について考えていたら

面白いことが浮かび上がってきた。

 

実は私。

 

高い所が苦手だったり

先端恐怖症だったり

火が怖かったり

閉所恐怖症だったりする。

 

もちろん症状はたいしたことはないのだけど

これについて今まで特に疑いはなかった。

 

しかし、これらの事実が

別の意味を持っている可能性がある。

 

これは突拍子もなく聞こえるかもしれないけど

私は前世

石田三成の下、関ヶ原の戦いで

戦い死んだ人なのではないだろうか。

 

しかも、光成に

縁のある人で

光成の「大一大万大吉」という考えに

共感していた人。

 

誰かに刺されて死ぬ夢はよく見ている。

(=先端恐怖症w)

 

ありえないか?(笑)

 

なぜ突拍子もなく石田三成の話が

出てきたかというと

私が「采配のゆくえ」という

関ヶ原の戦いを描いた

DSのゲームが好きだったからである。

 

その時から光成ファンなのだけど

どうして「負けた側」に

共感するのかは分からなかった。

 

しかしもし仮に「前世」が存在し

自分が光成の家臣に近い人物だったとしたら。

 

自分の共感度が高いのも肯ける。

 

もちろん、頭の解釈に過ぎないので

間違っている可能性は充分にあるけど

「絶対ありえない」とも言えないので

記事にしてみた。

 

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6月の記憶が曖昧だった日に、地下新宿の柱の下で座り込んで泣いていた女の子について

これは最近の話ではない。

 

かなり前の話。

 

私が大学生だった頃の話だ。

 

六月頃だったのは

覚えている。

 

私は電車に乗って

家へ帰る途中だった。

 

途中、車内に忘れ物をしたことに

気づき新宿へと引きかえした。

 

新宿の地下はごった返しており

人が色んな場所へと移動していた。

 

私は駅員の人に忘れ物がないか

聞いたところ、あると言われた。

 

私がその通路の前で待っていると

その地下のある柱の下にもたれかかって

へたっと座り込んでいる女の子を

発見した。

 

いつもなら目についても

「なんかあったのかもな」ぐらいで

スルーしていた。

 

しかしその日に限って

というかその子は気になった。

 

なにしろ30分以上

座っているのだ。

 

そして、ただ座っているだけでなく

泣いていたのだから。

 

私は放っておけなくて

声をかけた。

(声をかけるまでに

すごい時間がかかった。

おそらく隣に座りこんで

20分は経っていたはずだ)

 

するとその女の子は

先ほどまでしていたイヤフォンを外し

(音楽を聴きながら泣いていた

ということになる)

はじめにこう質問してきた。

 

「心理系の人・・?(涙ぐみながら)」

 

私は苦笑いでこう答えた。

 

政治学科w」

 

その後も4・5回

会話のキャッチボールを続けたが

もう覚えていない。

 

その女の子も話して

少し気が楽になったのか

立てるようになったので

「お茶でもしませんか?」

と聞いたところ

肯いてくれた。

 

そして、地下新宿某所で

お茶をしたのだけど

一番気になった話が

「足が動かないの」だった。

 

その時「そんなことあるのか?」

と思っていた。

 

最近になってネットなどで調べたところ

たしかに「足が動かない」

という症状があることを知ったので

ウソではないんだろうと思っている。

 

ただその時の私には

「一期一会」の価値が分かっていなかったので

その出会いを「捨てた」。

 

「またどこかで会えたら♪」

という言葉を残し。

 

おそらく、もう二度と会えないことは

分かっていながら。

 

なんでこんな話をしたかといえば

昨日の夜から

村上春樹の「4月のある晴れた朝に

100%の女の子に出会うことについて」

という短編を読んでいたところ

ふとこの思い出の記憶が甦ってきたからだ。

 

この話の筋は単純。

 

若い頃にお互いに100%だと

思う異性に出会う。

 

ところがお互いに100%同士なら

今別れてもまた出会えると信じて

折角出会ったのに別れてしまう。

 

そのあと、悪性のインフルエンザにかかり

記憶をなくしてしまう。

 

お互いにお互いを忘れ

約束したことも忘れ。

 

そのあと、この短編では

主人公とヒロインは

原宿の裏通りですれ違っている。

 

しかし年齢が30代を過ぎたこともあり

もう二人はお互いの存在に気づけない。

 

人とのつながりは「その時に」

大切にしないともうそういう出会いは

ないかもしれない

という風に読める作品。

 

一回目読んだときは

「話が短くて特に展開の面白さはないな」

と読んですぐ投げたのだけど

読み直して場面場面を

イメージしてみると

時間が過ぎ去っていくことの

悲しさのようなものを感じて

印象が変わった。

 

「ああ、あの時、連絡先だけでも

交換しておけばよかったな」と。

 

と、いくら嘆いても

もうあの子とは出会えないわけで。

 

何が二人を引き寄せたのかは

分からない。

 

おそらくお互いに100%の異性

というわけでもない。

 

ただなんでだろう。

 

またどこかで会う気がしなくもない。

 

どういう形で会うことになるのかは

分からないんだけど。

 

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非局所相関と海辺のカフカ

たまたま今日

量子力学」の本を

読んでいたら

「非局所相関」という言葉に

出くわした。

 

実験についてはよく分からないのだけど

「空間的に離れた場所に置かれた装置間で

一方の測定が他方の測定に影響を与えること」

ということらしいのだ。

 

これを見た瞬間、ピンときた。

 

「これってもしかして

村上春樹海辺のカフカじゃないか?」

 

この作品の中では

主人公である田村カフカ少年が

四国にいながらも

遠くの土地にいる

自分の父親を殺してしまったのではないか?

と自分に問いかけるシーンがある。

 

私がこれを初めて読んだときは

殺したのは「ナカタ」さんという

老人でありカフカ少年が

殺していないことは分かっていた。

 

なので「そんなことはないよ」

と自分に言い聞かせていた。

 

しかし。

 

今日、読んでいた量子力学の本の

「非局所相関」の意味を知って

ぎょっとした。Σ(・□・;)

 

もちろん、カフカ少年が殺していないことは

本を読んでいる側からすれば

誰の目にも明らかなわけだけど。

 

カフカ少年が「何か」を

「観測」した結果

遠く離れた地にいる父親が

ナカタさんの「観測」を変え

実際にカフカ少年の父親を

殺したとしたら。

 

いやいや。

 

もちろん、それはないとしても

村上春樹

大島さんの口を借りて

こう言っている。

 

「夢の中で責任が始まる」

 

「想像力のないところに責任は

生まれないのかもしれない」

 

解釈が分かれるかもしれないけど

この「想像力のない」=「無意識」と見て

「夢」=「意識」という風に

置き換えるならば

「夢」を見

「想像力」を使うことが

「責任ある生き方」。

 

逆に「想像力」を使わないような

無意識的な生き方が

「無責任な生き方」だという風に

見ることもできる。

 

話がずれるかもしれないけど

私はそういう意味で数十年間

無責任に生きてきたと思う。

 

自分の都合のいいように

解釈し共感し

自分に合わない・自分が共感できないことに

ついては無視してきた。

 

でも、今は思う。

 

自分と違う価値観・世界観の考えを

知り味わってこそ

本来の「想像力」なのだと。

 

それに気づいてからというもの

(ここ一週間だけどw)

小説や漫画を読む際は

情景描写や、自分と違う価値観・世界観の

人物のセリフを味わうように

「脳内」で何度も繰り返し再生するようにした。

 

これをある人は

「情動シミュレーション」と呼んでいる。

 

その人に言わせれば

読書には

「自分を破壊する読み」

「自分を出血させる読み」があるようで

私はまだその領域に達していないけど

私なりに「イメージ入力負荷法」

と名前を変えて実験している。

 

まだ実験して日が浅いけど

あるTV番組で「極寒」の地のシーンを見て

自分の脳内で想像したら

「ガチで」寒くなったので驚いた。

 

母親はいつものごとく

TVの「流し見」をしていたので

「どうしたの?」と聞いてきたけど。(笑)

 

想像力を使うと

脳は「妄想」ないし「想像」と

「現実」を区別できないので

ありありとリアルに感じることも

できてしまうのだった。

 

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発声障害における治療法の情報が注射か手術ぐらいしかないのはおかしいけど、そればかり気にしててもしょうがないので

私が見てきた限り

多くの精神疾患の人は

(その予備群も)

「声」の「不調」を

感じている。

 

声がつまったり

かすれたり

ふるえたり。

 

そういう症状と向き合いながら

日々暮らしている。

 

中には私みたいに

「何か治る方法ないかな~」

と考えて検索する人もいる。

 

発声障害で検索すれば

40万件ほど出てくるところを見ると

それなりに自分が発声障害だと

思っている人が多く存在するということだろう。

 

耳鼻咽喉科や医療情報を見ると

治療法として注射や手術を勧めている。

 

私はこれを見た時違和感があった。

 

「なんで、そういう方法しかないの?」

と。

 

何も、そういう治療法を否定するつもりはない。

 

しかし、その治療法をして「治った」人の

情報がほとんど落ちてない。

(というか、ない)

 

ということは、いわゆる「西洋医学」的な

治療法のアプローチでは一時的に症状が

緩和されることはあっても

完全回復にはならないということだろう。

 

じゃあ東洋医学はどうだろう?

と思って「発声障害 東洋医学」と関連して調べると

5000件ほどに絞られる。

 

この量を見る限り

東洋医学のアプローチでも

ムズカシイ症状だと言える。

 

言い忘れていたけど

私もこの「発声障害」だ。

 

仕事や仕事の人間関係で荒れて

調子を崩してから声の「不調」になった。

 

そのあと、ヨガ・気功・ボディトーク

カイロプラクティック鍼灸などに

通ったが、声は一向によくならなかった。

(五年経過w)

 

そして現在もそれに変わりはなく

時々、声の不調を気にする時がある。

 

「あぁ、やっぱり治らないのかもな」と。

 

ただ一方で、昔のように

発声障害」で悩み続けることはなくなった。

 

というのも、結局身体だけにアプローチしても

ダメなのではないかと気づいたからだ。

 

それから私は方向転換をして

リアルな人間関係を大切にしていこうと

思うようになった。

(この言い回し多いなw)

 

それからというもの

発声障害

「気になる」ことは時々あるものの

それを気にして人前で喋れない・家からでない

ということはなくなった。

 

というか発声障害

「忘れる」ようにもなった。

 

そして今もまだ

発声障害はあるものの

今は自分で「茶話会」のようなものを

開催しようと考えるまでにいたった。

 

これは前々から考えていたのだけど

「生き辛さ」や「困りごと」について

話すのではなく

自分の「大好きな」ものについて

喋る、そういう会だ。

(「茶話会」ではなく「多話会」

というネーミングでできたら

一番いいのだけどw)

 

どういうテーマで話すのかは

まだ決めていない。

(あてはあるけど)

 

ワンピースや哲学。

村上春樹ポケモンが候補。

 

父親にはもう話してある。

 

父親いわく

「宣伝するちらしに自分が主催する会と

一般的な当事者会と区別して

書かないと分かりづらいだろうね」と

言われた。

 

その通りだと思う。

 

自分が主催しようと思っている

「茶話会」は

先ほども書いたように

「生き辛さ」や「困り感」を

共有・共感してもらう場所ではない。

 

そこはちゃんと書かないといけない。

 

私は充分、自分の悩みは

自分固有の悩みではないと分かったので

そういう場を必要としなくなった。(ほぼ)

 

その代わり、自分が喋りたいと思うことが

増えてきた。

 

その悩みというか「喋りたい」気持ちは

おそらく、他の人にも通じると直感的に感じた。

 

だからそういう会を主催してみるのも

面白いだろうと思って

来年度からやる予定だ。

 

もし仮に第一回の会に

一人でも参加者がいるようであれば

今後もこの「多話会」の開催はしようと思っている。

 

ちらしで宣伝するので

どうなることかは分からないけど。(笑)

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アナログゲームだけではない、ゲーム全般に関わる苦い思い出

数か月前、某所で

開催されたアナログゲーム

(=ボードゲーム)のイベントに

参加した。

 

社会人の人が多く参加していた割には

そんなに緊張しなかった。

 

が、肝心のゲームが楽しめたかというと

★五つで判定をつけるなら

二つぐらいだ。

 

主催している人の感じはよかった。

 

青森からきていて

また故郷に戻って

そこでアナログゲームができる場所を作るのが

目標だと言っているだけあって

司会進行もばっちしだった。

 

だから、盛り上げには

問題なかった。

 

問題は、おれだ。(笑)

 

ゲームのルールを飲み込むのが遅く

一回ゲームのルールを質問したり

聞いてもすぐ忘れてしまう。

 

ゲームのルールを

ミスらないかに意識が集中し

肝心のゲームが楽しめない。

 

「何やってんだ、おれ・・・」

とイベントが終わってから

若干落ち込んだ。(笑)

 

で、最近この体験を思い返して

気づいたのは今までやってきた

アナログゲームでないゲーム

(ボタンを押す奴)も

結局、ルールを把握するのに

必死だと楽しくないということだ。

 

たとえば、ドラクエポケモンなんかは

RPGで初心者でも

比較的楽しめるゲームになっている。

 

それに対して、格ゲーやパワプロ

大乱闘スマッシュブラザーズなどの

ボタンの連打や、コントロールキーを

動かす奴になると、私は

下手くそすぎて、いらついた。

 

スポーツの経験上、たしかに

身体が上手く動かせないことはあったが

ゲームは、それ以上だった。

 

中学時代

ゲームは基本的に友人の家で

やっていたのだけど

隣にいるゲーマーの彼は

何事もないように

平然とやっていたから不思議。

 

他にも高校時代

麻雀に誘ってきた奴がいて

(そいつとは疎遠だがw)

「暇ならやれよ!」という

今思い返せば、あまりに強引な

コミュニケーションの仕方で

俺に、麻雀をやらせようとしていた。

 

たしかに、君が麻雀が好きなのは

分かる。

 

しかし、私は麻雀の面白さ・楽しさを

知らないの。

 

だから、無理やりやらせて

つまらない思いさせるより

麻雀の楽しさ・面白さを

噛んで含めるように話してから

麻雀に誘った方がいいんじゃないの?

と今の私なら思う。

 

そいつは、理系でありながら

漢文や現代文の能力も高かったにもかかわらず。

 

先ほど出したゲーマーの彼も

そうだけど、最近になって

現代文得意=コミュニケーション能力が高い

というわけではないということに

気がついた。

 

ということは昔は

現代文得意=コミュニケーション能力が高い

ということに相関関係があると

思っていたということだろう。

 

で、私が思うにどちらかというと

コミュニケーションというのは

相手が喋っていることの「違和感」に

気づくことだと思っている。

 

だから、かえって現代文読解のように

文章を要約する力は

コミュニケーションの中で

必要な力でもあるけど

それだけで済ませると

お互いにすれ違いが多くなる。

 

なぜなら、人の気持ちはそれほど

簡単に要約できるものではなく

いかようにも、広がりや深さを

見せるからだ。

 

たとえば、天気の話ひとつとっても

知り合いが「寒いですね」と言った時に

「そうですね」

と済ませるのか。

 

それとも知り合いが

「寒いですね」といった時

温かそうな服をきていなかったり

きていたりすれば

「それじゃ寒いでしょ?」

とか

「その服温かそうですね。

どこで買ったんですか?」

という話にできる。

 

一方ではその人が

寒さにもめげず

スカートを履く理由が分かり

 

もう一方では

その人がしたい服の話ができる。

 

これを「そうですね」と

要約してしまうと

会話が終わってしまう。

 

そうならないように気をつけたい。

 

そのためには

コミュニケーションも

ゲームのように

ルールを理解したり

要約したりということに集中するのではなく

会話の「やりとり」をこれからも楽しんでいきたい。

 

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18禁という制約と、今はもうしない夢精

思春期の頃に

ぼんやりと思っていたことがある。

 

それは何かというと

「どうして、周りは18歳にも

なっていないのに

アダルト本を買っているのだろう?」

 

根が真面目で純粋だった私は(笑)

そういう思考をしていた。

 

そういう意味では

よくある哲学の疑問。

 

「人はなぜ生きるのか?」

「人生とは何なのか?」

のような発想とは逆だ。

 

常識を無視し

ルールを破りにいくのではなく

その〈今〉ルールを根源的に

考えていく。

 

今回の話でいえば

「18禁」という制約が

意味するところは何か

ということである。

 

私が中学生の頃はまだ

個人のインターネットも

買えなかったし

スマホも当然ない。

 

当時

インターネットでやっていたことは

2ちゃねる関連の

面白サイトを見たり

脱衣ブロック崩しなどを

よく見ていたぐらいだ。

 

一時期大ハマりしたのは

「てーるずばとる」という

チャット型の多人数仕様の

狩りゲーム。

 

これはいずれ機会があれば

話そう。

 

そこでやっていたのは

動画を見たり同人誌を見たりしながらの

マスターベーションではない。

 

隠すまでもない。

 

私は高校生になるまで

マスターベーションをしたことがなかった。

 

高校生になってから

やった。

 

この後、私は「過剰な性欲」に

悩み苦しむことになるのだけど

それは今となってはいい思い出である。

 

この身体に不似合いとも思える

「性」の欲望。

 

それはある意味

低身長で悩む男と同じ。

 

あるいは

おっぱいが小さくて悩む女と同じく

「一部の人からがっかりされる」ことを

前提とした身体の成長だった。

 

その苦しみや疲れから

よく夢精をした。

 

村上春樹の小説には

夢精をする主人公がよく出てくるけど

まさにそれである。

 

くたくたに疲れて

思い悩んで寝ると

だいたい私は「夢精」した。

 

通算夢精数は、おそらく

今までで100回は超えるだろう。

 

その夢一つ一つを

覚えている、わけがない。

 

性的な夢であることは間違いないが。

 

というように

私は「性」という問題は

意外と悩みの一つになるえると

思っている。

 

中には、性的な抑圧環境下に

いる家庭もあるだろう。

発達障害もその一つ?)

 

クリスチャンをこじらせた感じの人は

そういう傾向もある。

 

そういう人たちがいたとしても

「今更何を18禁だって?」

と思う人も少なくないだろう。

 

私も最近までそう考えていた。

 

しかしある時見方が変わったのである。

 

それは自分の「器」(キャパシティ

と言い換えてもいい)が

未成熟な段階で

「性的な」ものに触れると

どうなるかである。

 

自分の知っている人を見た範囲でしか

いえないから、例外もあると思うけど

意思疎通レベルの

コミュニケーションで止まって

付き合う人達の多くが

破局を迎えた。

 

どうして破局を迎えたのかは

分からない。

 

推測でいうならお互いに

「異性」を「性的」に見るあまり

(かっこいいとか、やりたいとか)

コミュニケーションを

疎かにしてしまった結果ではないか。

 

とある言語学者は

ある動画で

「近すぎて見えない」

ということを言っていたけど

(その動画では別の意味あいだけど)

 

恋愛=心の病だとすれば

キャパシティが未成熟な段階で

付き合った二人が

コミュニケーションを通して

「すれ違って」いくのは

お互いを「よく見すぎている」

という点で言えば

当然なのかもしれない。

 

そういう意味では

逆の観点もあるだろうけど

(たとえば、ポリネシアのように

逆に小さい頃から性に触れる環境もある)

やはり、18歳ぐらいになるまでは

得難い、色んな経験を積んで

コミュニケーションの可能性を試して

それから「異性」関係に

入っていった方がいいのではないか。

 

何も、異性との関係を全くしない

ということではないんだけど

興味本位で性に興味を持ちすぎ

それ以外のものが見えなくなると

あとで大変になる、と。

 

いわゆる出来ちゃった婚であったり

クラスの同級生同士で

付き合っていたら

ゴールイン!(なんか、ズームインみたいだなw)

 

その時はお互いに「これからよろしくね♡」

という和気藹々ムードかもしれないけど

その後は・・・となる可能性何パーセント?

 

「すれ違い」のことを考えた時

「あの時、好きだった子に告白しないで

よかったのかも」と思うようになった。

 

ちなみにその子は

今でも夢に出てきます。

 

(下のボケては、本当は夢精してないけど

夢精した夢を見て目覚めた時の感覚に近いw)

 

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