ターマーエッセイ

一切が無関係

「ワンピース」を、政治がっくん徒が読むと?

 漫画「ワンピース」について

幾ばくか、話をしたい。

この漫画、売れていることは

売れているものの、実は

日本中で広まっている漫画なわけではない。

 

 それに気づいたのは最近。

自分のツイッター界隈もそうだし

リアルに出会ったきた人達も

そうなのだけど、この漫画は

そこまで「熱く」読まれていない。

 

ほとんどの人が、その「熱い」思いを

人に伝えていないし、多くの人が

読んでいないのだ。(笑)

 

なので、今回、ある視点で見ると

ワンピースを読むのが楽しくなる

ということについて書こう。

 

 まずはじめにこんな質問をしてみよう。

「現代において、政治的でない人間はいるか?」

これに「イエス」と答えられる人は

政治学的には「無知」である。

 

世の中には、政治に関わっていない人=政治的ではない

(あなた)という図式を持っている人も

いるかもしれないけど、本来はこうではない。

仮に、あなたが「自分は政治的ではない」と

Twitterでつぶやいたとしよう。

 

しかし「政治的ではない」とつぶやいた瞬間

政治に携わっている人からすると「ノンポリか」

と、政治学の図式に区分けされてしまうのだ。

 

あなたがどんなに必死こいて

「そういう図式化はやめてくれ。おれは

そういう主義・主張はしていない」といくら吠えたところで

話はややこしくなるだけ。

「ああ、あいつは主義・主張をしない

沈黙タイプのノンポリなんだな」と勝手に

解釈されるだけ。

 

それぐらい、政治の世界は、自分のあずかり知らぬところで

区分けされている。

これは、政治の世界に限ったことじゃないけど

政治だとそれが分かりやすい形で表現される。

 私たちの生まれた時代というのは、実は

そういう「ノンポリ」的な時代を「前提」

にしている。

 

ある時代までは、政治的な問題に

首を突っ込まないことがよしとされた時代もあった。

エヴァンゲリオンの時代がそうだ。

私はエヴァンゲリオンに詳しくないので

語るとぼろが出る前提で書いているけど

あの時代は「~しない」ことで

(会社や組織に関わらない)

言うなれば「ひきこもる」ことで

世の中に、自分の主張や主義を伝えていった時代だと言われている。

 

つまり「沈黙」における悲痛な思いを

「ひきこもり」という形を通して

ある種、世の中に訴えていた。

それが通用していた時代もある。

(長くなってきたな)

 

しかし、ゼロ年代になったところから

いやそれ以前からかもしれないけど(笑)

そういう「ひきこもり」型の

政治的な主張は「前提」で

積極的に、自分からコミュニケーションに

乗り出さなければいけない時代がきた。

 

それが「前提」になるには

社会的な問題が起きたからなのだけど

私自身、オウムの事件も、

阪神淡路大震災

小泉純一郎の政策も

よく分かっていない。

 

それは詳しい人に聞いてくれ。(笑)

私がここまで長々と話をしてきたのは

ワンピースはこういう文脈の中出てきた漫画なのだ。

 

 主人公であるルフィは

ごみ溜めのような場所で育つ。

人として、当たり前の「生きる」価値が

当たり前じゃない世界にルフィは投げ込まれている。

 

 そこでは、友達であるサボも

殺されかける。

この点を、解釈するなら、自分たちの上の世代が

「ひきこもった」結果、子供たちは

その上の世代から、経験や知識を吸収することが

できなくなってしまった。(善悪の話はしてないよw)

 

その結果、会社や組織の卑劣な行動を

子供たちが「もろに」くらうようになった。

そこで、一部の子供たちが考えたのは

「この世界はひどい」

ということではなく

「この世界はゴミに満ち溢れているから、

自分が関わらない限り変わらない」という強い確信である。

(子供で、この解釈すげーーw)

 

これをルフィは身体感覚で学んでいる。

自分の身に置き換えて考えるなら

ルフィは「初期設定」で「生まれた世界」から

「虐められている」のだ。

 

で、ルフィのすごいところは、さっきも書いたけど

「この世界はひどい」という主張は

「前提」になり、そこからどう「生き抜いていくか」が

彼の生き方になっているということだ。

 

その後のルフィの仲間集めについて書かない。

それよりも、ルフィが「ノンポリ」ではなく

「決断」に次ぐ「決断」の連続で

彼は生きている。

そこが、この漫画の最大の魅力だろう。

 

彼には「自分の生まれた場所を住みやすくしたい」

とかいう欲望はない。(たぶん)

彼にあるのは「自分の人生に関わる人達と

一緒に、このひどい世界をもう少しましな世界に

していこう」という信念である。(たぶん)

彼が、受けたひどいいじめ体験は

その場所に限って起こった体験ではない。

 

政治的に見れば、世界との

もっと複雑な相互関係の中で

起こったことである。

だから、その生まれた場所だけを忌み嫌っても仕方がない。

問題は「世界」にある。

もう、時代は、自分たちの生まれた場所で

完結するような時代ではなくなっている。

ワンピースの時代というのは

「日本」と「世界」が

あるいは「日本」(生まれた場所)と

「日本」(それ以外の場所)が

つながった、そういう時代なのだ。

 

そういうことを言うと、上の世代から

批判が来るかもしれない。

「日本と日本がつながっているのは

今に始まったことじゃないよ」と。

 

しかし、歴史的に見れば、

どうだろう。

まだ交通の便が用意されてから

200年もたっていない。

そう私は考えている。

 

だから、確かに「今」に始まった

ことではないのはたしかだけど

それでもまだそれだけの時間しか

たっていないことを前提に考えると

「日本」と「日本」が

つながっているのが当たり前

という時代に生きているのは

今までの日本人の歴史からすると

そんなに「当たり前じゃない」。

 

若干、話が大風呂敷になりかけてきたので

ここまでにするが

ワンピースの時代背景には今言ったような

「日本」と「世界」の「結合」と

「日本」と「日本」の「結合」

を前提としている。

 

 これはインターネットの普及と

必ずしも関係はない。

よく、インターネットの話とワンピースの話を

絡める人がいるけど(海=情報という海)

これは完全には当たっていないと思う。

 

それ以前からも、日本は日本とつながっていたし

日本は世界とつながっていた。

ただ、インターネットの普及でそのつながりが

「よく分かる」ようになっただけ。(笑)

(ここではインターネットの可能性には触れていない)

時間はかかるし、治安も悪いかもしれない。

でも、好きなところに行けるし

話をしてくれる人もいるかもしれない。

それが、この時代の前提。

こんなに、贅沢な時代が人類史始まってあっただろうか。

その文脈の中、そしてさらに「便利」「快適」

になりつつある世の中で、私たちは生きている。

 

 Twitterで猛烈なまでに

ワンピースについて熱く語っていた時期がある。

今思うと「何をそこまで」と

思ってしまうのだけど

当時は「流行に流されたら死ぬかも」

という考えと、劣等感と不安と必死さで

熱く語っていたのだ。(笑)

でも、あれは今考えると「無謀」だったと思う。

ただ、自分のことを知ってほしくて

Twitterという世界の中に

ただ「つっこんで」いただけ。

言論人の真似をしただけなのだ。

 

 今、思うことがあるとすれば

私は、ツイッター上でワンピースという王道漫画を使い

餌を作り、人を釣っていただけだということだ。

決してワンピースが大好きなわけではない。

(もちろん、好きなんだけどねw)

 

じゃあ、ワンピースは読む価値がないかといえば

そうではない。ある時代の「参考図書」として

手塚治虫の漫画に読む価値があるように

尾田栄一郎もまた読む価値があるのである。

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