ターマーエッセイ

一切が無関係

擔雪填古井という禅語を味わって

この言葉は知らない人

多いだろうな。

 

なぜならグーグル検索で

ほとんどでないから。

 

だから紹介するのも

面白い。

 

読み方は「雪(ゆき)を擔(にの)うて

古井(こい)を填(うず)む」。

 

この言い方の他にも

「担雪塞井」というような言い方もあるので

あまり言葉の言い方は気にしてなくていい。

 

大事なのは

この言葉のエピソード。

 

禅では、一見よく分からないような

エピソードがあり、それに惹かれる人も多い。

 

この言葉は簡単にいうと

「井戸に雪を落とす行為」を説明している。

 

普通のイメージなら

井戸に雪を落とす行為は

無駄な行為であり、愚行である。

(溶けちゃうからね)

 

しかし、禅はその世界とは正反対の意味を見出す。

 

その無駄な行為であっても

人間本来の「心」から発するものであるなら

それを実行する。

(しなければいけない、と言ってないのが

味噌かもしれない)

 

これはいわゆる「老子」や「荘子」にある

「無用の用」にも似ている。

 

役に立たないことをやり続けることが

自分の人生にとって真に役立つ、的な。

 

なぜこの禅語を紹介したかというと

知らない人に知ってもらいたかった

というのもあるけど

地元の住職がこの言葉が好きだと

言っていたからだ。

 

役に立つことだけでなく

役に立たないこともやる。

 

村上春樹もこれに似た言葉を

「小さなやかん」(=効率性)と

「大きなやかん」(=非効率性)で

表していて、この説明も見事だと思う。

(おそらく、村上春樹にとって

翻訳という仕事は、その「大きなやかん」

なんだろうな)

 

効率性と、非効率性。

 

そういう意味では、ブログを書くのは

とても無駄な作業のように思える。

 

最初の内は誰に読まれているのかも

分からないし、続けようと思う根気と

体力と忍耐力がないとできない。

 

非効率である。

 

しかし、やっていくうちに

徐々に読まれてくると

「まぁ、今日も書こうかな」と

いう気持ちになってくる。

 

ただし、身体を壊しては元も子もない。

 

私の場合、長時間のパソコン生活で

無理が祟ったのか、背骨が痛み出した。

 

老化かもしれない。筋力の衰えかもしれない。

時々、猫背になるせいかもしれない。

 

私自身は、パソコンと共に

心中する気はないのだけど

パソコンがあっての「出会い」も

あったことは事実だ。

 

「taka-bee」にもニコニコ動画にも

パソコンがない人は出会えない。

 

そして、パソコンがない人

スマホがない人は「ああた」が

思っているより多い。

 

その点、私はネット中毒である。

 

この誘惑から離れたいと思い

一度、半年ほど

地元の禅寺に通った時も

パソコンの誘惑には勝てなかった。

 

だから私はパソコンから離れることをやめた。

 

パソコンはもう私の身体の一部である。

 

だったら、この「効率性」のいい

パソコンと共存しよう、と思った。

(大げさだけどねw)

 

今の若い人達だとこれが「スマホ」に

なるのかもしれない。

 

この便利さ、手間のかからなさは

たしかに「効率」がいい。

 

しかし、これ「だけ」だと

自分の人生は好転していかない。

 

この禅語はそのことについて

教えてくれるような気がする。

 

f:id:remone-dox:20180107094311j:plain

日光東照宮にはこれの像があるし)

 

f:id:remone-dox:20180107094617j:plain

(これなんか、禅の世界なんだけど、なんだかわからないよね

意味を求めるな、ということかしら?)