バカの申し子「めくる」のでんぐり巡り

ラーメン、いっぱい(一杯)食べたい~♪食べているから、ハッピーさ~♪

徒然草との対話・201段の「ずれ」

庭の木にミカンを刺して

野鳥がくるのを待っている

「Rigo」です。

 

今のところ、太ったメジロ

拝見されている。(笑)

 

色んな鳥がくるといいんだけど。

 

さて。

 

今日も徒然草との対話をやるでよ。

 

今回は前回の続きで

「201」段。

 

退凡・下乗の卒塔婆、外なるは下乗、内なるは退凡なり。

 

前回の「200」段との関係性や脈絡は

つかめないけど

「事実」の話をしているという点では

似た段なのかもしれない。

 

ここで言っているのは、ある訳によると

釈迦がいたインドのある場所の話。

 

釈迦は、霊鷲山というところで

説教をすることがあった。

この段ではそこに行く途中にある場所に

王様が立てた「卒塔婆」の話をしている。

 

退凡は凡人を退けて入れないこと。

 

下乗は王様が乗り物を降りて

歩いていくこと。

 

意味として、退凡で言いたかったのは

この山で説教を聞くからには

身分は関係ないし

振る舞いや言動がひどければ

帰ってもらうということが

言いたかったのではないか。

 

下乗の方には、王様でさえ

歩いていく、との旨が述べられている。

 

釈迦の前では、地位や偉さは

関係ないのだ。

 

この二つを合わせて考えるなら

やはり、兼好法師のいた

当時の世の中の風潮は

この逆だったんだろう。

 

偉い人がおごり高ぶり

地位の高い人が傍若無人顔をしている。

 

こういう状況に

鼻持ちならなかった兼好法師

「怒り」や「情けなさ」や「悲しみ」を

この一行で読み取れる人は

ほとんどいないのではないか。

 

グーグル検索をしてもこの段に

言及している人は少ない。

 

「なり」を「である」で訳すなら

断定を言い表した

その人の見解になるし

存在の意味でとるなら

「にある」ととることもできる。

 

 

「にある」でとった場合

霊鷲山になる登る際

まず下乗し退凡かどうかを見極めることは

事実となる。

 

どちらでもとれなくはなさそうだ。

 

「である」がネットでは一般的な解釈であるので

私はこれに異を唱えておく。(笑)

 

おそらくこれは200段の「前段」と同じで

「こういうもんなんだ」では主観ではなく

「こういう事実がある」と解釈する。

 

私たちは普段「~である」調を使わなくなったこともあり

「~である」と「~がある」を区別できなくなったけど

ここはそう解釈することもできる以上

私は客観的な「事実」の意味として取りたい。

(あとで、他の段も読んでいたら

圧倒的に「なり」は「断定」が多いかもしれないので

間違っている可能性は多分にあるw)

 

今日の気づきは連体形の「なり」で使われる

「である」と「がある」には

違いがあることだな。

 

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(両手が反対になっているのも「陰陽」を表していたりするのか?)