バカの申し子「めくる」のでんぐり巡り

ラーメン、いっぱい(一杯)食べたい~♪食べているから、ハッピーさ~♪

95歳まで生きて亡くなった爺ちゃんを見て、もう少し「からだ」と対話できる人間になろうと思うニート

昨日、亡くなったおじいちゃんを

見に行った帰り道

川崎のラゾーナ

ジャニーズライブイベントを

見て、それにノッている女の子たちに

ちょっとした違和感を感じた「Rigo」です。

 

95歳のおじいちゃんは、大往生をとげました。

 

恐るべき、戦前世代(大正生まれである)。

 

相撲と野球と歌(島津亜矢など)と卓球が

好きだったおじいちゃんの「亡骸」を見て

「よく、ここまで生きました。

おじいちゃんのその好奇心旺盛さは

孫も受け継いでいきます」

と心の中で唱えていた。

 

あらためて「亡骸」というのは

言葉遊びでいう「亡き空」なのだと感じた。

 

私たちは、自分が肉体を持っていることは疑わない。

 

しかし「からだ」=「空だ」という言葉遊びもあるように

人間というのは、本来「空っぽ」なのである。

 

それが、肉体を持つがゆえなのか

自分というのは「ぎっしり詰まった情報体」という

「常識的世界観」の中で暮らしている。

 

私はまだ自分という存在自体が

「空間」であることについては

腑に落ちていないけど

たしかに言われてみれば

そうなのかもしれない。

 

家でいえば、家には骨組があるけど

私たちはそれをリビング「スペース」と呼び

「空間」とも言ったりする。

 

人間の身体もたしかに、中には「臓器」があって

「隙間」がないように見えるけど

実際「あそび」のような「隙間」は存在する。

 

そういう意味では人間は「空間」だと言われても

腑に落ちないことはあっても

「空間」としてとらえることができるという視点は

意外と重要なのではないか。

 

ここで「自我」および「エゴ」について

考えた人は鋭い。

 

そうなのだ。自我があるから、人は苦しみを感じる。

 

別の言い方でいうと、自我に張りついた「感情」を

処理していないから、人は不快感から逃れられない。

 

私は、アファメーションの記事でも

「自覚」という方法について書いたことがある。

 

これが万能だとは思っていないけど

色んなハウツーをやって上手くいかなかった人には

勧めたい、セルフケアの方法である。

 

今回、おじいちゃんが亡くなったこともあり

私はおじいちゃんとの思い出を少し思い出している。

 

そして、川崎のラゾーナに寄り

丘沢静也さんの「ツァラトゥストラ」の本を購入。

 

私は丘沢さんの「マンネリズムのすすめ」を読んで以来

「面白い翻訳家だなw」と思っている。

 

この光文社古典新訳文庫

ツァラを「からだ」という視点でとらえた画期的翻訳。

(アマゾンレビューには低い評価もある)

 

私自身が以前、ちくま文庫で読んだときは

自分の読みたいところしか読んでいなかったのか

「からだ」についての箇所はスルーしていた。

 

しかし、ニーチェはやはり「からだ」について

鋭い洞察を持っていた。

 

もし、図書館に丘沢訳の「ツァラ」がある人は

「からだ」について書かれた箇所だけでも

読んでみてほしい。

 

ニーチェはただ「自己完結世界」で死んだ人ではない。

 

まっとうな「からだ」感覚を持っていた人なのだ。

 

そういう意味では、今の私が苦戦している

「からだ」と「対話」する能力さえ持っていた。

 

ニーチェを称揚するわけではないけど

ニーチェの考え方は

私が時々考えている「人生における失敗とは何か?」

という問題に接続するので

「私にとって」ニーチェはなくてはならない存在。

 

次回は、野口体操について書こうと思っている。

 

「からだ」と対話するというのはどういうことなのか?

 

それを自分なりに言葉にしてみたい。

 

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))