バカの申し子「めくる」のでんぐり巡り

ラーメン、いっぱい(一杯)食べたい~♪食べているから、ハッピーさ~♪

どのメディアも、世の中が変化すると延命できる

新聞。

 

テレビ。

 

インターネット。

 

本。

 

どのメディアも、世の中が変化すると

延命できる。

 

それがその「媒体」の性質である。

 

世の中の変化こそが、メディアの「餌」であり

言い方は悪いが「金」になる。

 

まろは、それに気づいた上で

情報発信している。

(まろが情報発信しても一銭も入らないがw)

 

中原中也の記事でも書いたが

大人はおしなべて「汚れている」。

 

汚れているから「悪だ」ということではなく

生きる上で汚れるのは仕方ないのである。

 

それに気づき、少しでも「誠実」に生きようとするか

そのまま放置するかは別として。

 

さっきNHKの「ひきこもりルネッサンス」の

録画を観ていたが

「どこがルネッサンスなんじゃい。

髭男爵とかけただけじゃんw」と苦笑した。

 

悲しいかな。

 

母親は「今回の番組は

違うアプローチで作られていた」と言うが

まろには「二番煎じ感強いな」であった。

 

「社会全体の問題?」

 

何か、その言葉昔からずっと聞いてるような。

 

「生き方の支援?」

 

そこまで、支援者が関われるんだろうか?

 

これは、まろが嫌いな「バリバラ」にも言えることだが

結局、メディアの構造上

そこにお金が落ちる「ビジネスモデル」である以上

いつもいつも同じ内容では作れない。

 

「観ている」人がいるからだ。

 

「観て」「あ~私だけじゃないんだ」と

ほっとする人たちがいるからだ。

 

新聞も、ネットも、本も同じ。

 

「この著者、同じことばっか書いてる」と

揶揄される時の読者&視聴者の思考は

「同じことばっか言っててつまらん。

新しい知識で私の知的欲求を満たせ。」

と言ってるのと変わらない。

 

「変化する時代に、ゆっくり生きる」

とかも、結局は変化。

 

で、多くの人は「変化したり、変化しなかったり」

という折衷案をもって生きるのだが

これもまた変化である。

 

人は常に嫌われ続けている。

何かしても。何もしなくても。

 

というのが最近の持論だが

バランスのいい生き方って

あるのか?

 

たとえば、携帯所持で考えてみよう。

 

Aさん。スマホ、ガンガン使う。

 

Bさん。スマホ、あまり使わない。

 

Cさん。ガラケー

 

Bさんからすれば、Aさんは

極端な生き方と観てCさんは

「自分の考えを持つ」と観る。

 

ところがAさんからすれば

テクノロジーの利便性を有効活用しない

Bさん、Cさんは時代遅れ。

 

Cさんはスマホに乗り換えたくもあるが

携帯への愛着がある。

 

もちろん、今述べた視点でない視点もあるが

(どの人もお互いの価値観を否定してない状態)

こういう風に観ると

やっぱり「バランス」のいい生き方なんてあるのか

分からない。

 

昔、政治学を学んだ時

「政治とは、闘争である」と知ってその時は分からなかったが

経験を積んでくると

「この対立関係や批判関係は闘争だな」

と思えることが強くなった。

 

ジャッジしない生き方というのも

一つの価値観なわけだから。

 

100分で名著を観た際

カミュの「ペスト」に出てくる

「商人」の話が興味深かった。

 

この男は、ペスト状態を

「ビジネスチャンス」として

お金を稼ぎ儲ける。

 

YouTubeの時代がまさに

この「ペスト」の流行を意味しているかもしれない。

 

「ペスト」に出てくるリウーのように

「誠実」に生きようとする人は稀だ。

 

ちょっと、色んなこと言いすぎたが

言いたかったのは

どのメディアも、世の中が変化すると

延命できるということ。

 

そして、生きる上で、メディアと

関わらざるを得ない点で

その影響からは「完全」には

抜け出せないのである。

 

「自分は、全て自分の言葉で喋っている」

と言う人がいたら、そいつは怪しいのである。