バカの申し子「めくる」のでんぐり巡り

ラーメン、いっぱい(一杯)食べたい~♪食べているから、ハッピーさ~♪

とろけるマンゴーを飲みながら、読書と街歩きは似ていることについて考える

今日から新シリーズ。

 

朝寝して、今寝ぼけまなこ。

 

とろけるマンゴーを飲みながら

読書と街歩きは似ていることについて考える。

 

この「飲みながら考える」というアイデア

昨日、自動販売機で午後の紅茶を買って飲みながら

歩いている最中に出てきた。

 

暇人だからこそできる究極の贅沢かもしれん。

(今は家だがw)

 

あらためて「読書ってなんだろう?」

と考えてみた。

 

今朝地元にある「橋」を

二周してきたのだが

「橋」とはそもそも、境界をつなぐ役割があり

経済活動なり文化活動を活性させたいがゆえに

作られたものだと、まろは思っている。

 

だから「橋歩いてもつまんない」というのは

変な話で(まろは、さっき気づくまで思ってたがw)

橋はそもそも、面白いとかつまんないとかでなく

ただ「作られている」だけなのだ。

 

では、本はどうだろうか。

 

本は活字。

言葉でできている。

 

人によってはそれを「情報」という。

 

読んで面白いとも、つまらないとも思う。

 

読んで売ったり捨てることもあれば

もう一度読み直したりもする。

 

読み直す場合、新しい発見をし

違う感動もあれば

「あれ?何が面白かったんだ?」と

思うこともある。

 

当然だが、自分が住める地域は一つである。

それは人間の身体は「一つ」しかないから。

 

ところが、読書の場合、一つの本だけを

じっくり読み続ける人はいない。

 

なぜかといえば、それはその本が「絶対化」

されてしまうから。

 

人は知識を学んだり経験をすると

「相対化」の欲望が出てくる。

 

そして、新しい本を読む。

 

これは、違う地域を知るのと似ている。

 

違う地域も知って

「こういうルールや常識があるのか」と学び

そして、自分が住んでいる地域を「相対化」する。

 

相対化というのは、大学時代は分からず

病気になってようやく分かったのだが

要は、自分が絶対化しているのとは

違う価値観を理解することである。

 

で、ここで問題なのが

じゃあ延々と「相対化」していれば

いいのか、という問題である。

 

たとえば、シンプルにいうと

その地域、地域のルールというのは

「守られているか、守られていないか」の二つである。

(世代間の違いはあるし、普通は守られている)

 

その際「こういう考えもある。

こういう考えもある。」と考えていても

埒は開かない。

(大学のレポートなら、たぶん低評価w)

 

できることは、おそらく二つしかない。

弁証法」的に考えるか。

どちらかの考えを「選び取る」か。

 

ちょっと、話がまとまらなくなってきたので

一度、収拾すると

①本での感動は絶対化されがち。

②しかし、人は学んで相対化もできる。

③しかし、相対化しまくれば

いいという問題でもない。

 

まろたちは、地元を歩いたり

移動したりすると

「地元ってこんなもんだ」って

勝手に思い込む。

 

でも別に地元にある家全部

隣の晩御飯よろしく

尋ねて住人の話を聞いたわけではない。

 

ただ「ぼんやり」とそう思っただけ。

 

これは、読書でも同じである。

 

読書も、一字一句覚えているわけではないのに

「こういう本だった。

面白い。つまらない」と評価する。

 

何も一字一句覚えるのが読書といいたいわけではない。

(それは苦痛である)

 

ただ読書も街歩きも

「ぼんやり」しても

分かった気になるだけで

発見はない。

 

今日も、歩くパターンを変え

ペットボトルのゴミ入れがあるルートから行ったら

猫が朝から昼寝していた。

 

ぎょっとした猫は、ゴミ入れの裏に隠れ

じっとまろの方を観ていたが

まろがパターンを変えようと思わなければ

この猫には出会っていない。

 

結局、思ったのは「現時点では」

「こういう観方をしている」と

自分の観方を「絶対化」せざるを得ないが

その観方はまた変わることだってあるということ。

 

そのプロセスでいくなら

老いる」という不可避的な現象は

いい面でみると、格別の喜びなのかもしれん。

(だって分からないことが分かったりするから)

 

こう言っている間にも、まろは少しずつ

年を重ねていく。