バカの申し子「めくる」のでんぐり巡り

ラーメン、いっぱい(一杯)食べたい~♪食べているから、ハッピーさ~♪

ピアニシッモを、どう強調するかが「創作者」の力

まろは、どの表現分野も

「ピアニシッモ」(とても弱く)を

どう強調するかが「創作者」の力だと思っている。

 

もちろん、力技で「過激に」

登場人物に血を流させて

「心身」から「吐き出す」言葉も

魅力的である。

ONE PIECEのように)

 

しかし、まろがワンピースでいう

「コビー」のようなキャラが好きであるように

「人が聞こえていない」

「人が聞きとれない」声を拾う力にこそ

その人の「真価」が宿ると信じている。

 

それはある意味、両親から受けた影響もある。

 

「弱い人の立場に寄り添い、共感する」

 

これだけ聞くと、耳障りのいい

月並みな表現にしか聞こえないが

これを実際に「分かる」というのは実は難しい。

 

それは、その人「丸ごと」を

受け止めるからである。

 

ここでいう

寄り添う、共感するというのは

「寄り添えない」ことも

「共感しない」ことも

「理解しよう」とすることだからだ。

(あくまで、まろの理解ねw)

 

まろは、主治医でもなければ

フリースペースの「スタッフ(カウンセラー)」でもない。

 

同じ病気を共有する「ピア」でもない。

 

「距離感」を「間」を意識的に

とれる人たちとは違う。

(あくまで、例として極端に言ってるよ)

 

何だか分からないけど

「相手」に巻き込まれてしまう、そういう人である。

 

そうすると、人によっては

「他人軸で生きているからだ」とお世話係

&マウントしてくる人がいる。

 

しかし、大事な、大切な「友」に対して

「巻き込まれない」のは、はっきり言おう。

 

「無理だ」。

 

「巻き込まれない」で済むのは

相手に深く突っ込めないで微妙な距離のある

「どうでもいい」「友達」だけで

関係が深まれば、相手に巻き込まれること「も」ある。

 

極端に合理的なビジネスマンは、それこそ「合理性」をフル発揮し

相手と自分を完全に分けられるのかもしれない。

 

だが、まろには無理だ。

 

まろは、マリンフォードの戦いで

「勇気ある数秒」を出したコビーのように

無残に、無意味に、無駄に「死んでいったもの」を

一人でも減らすために

「声」を出す人でありたいと思っている。

 

コビーには、人としての「想像力」があったのだ。

 

無念のうちに「死んでいったもの」の声を

「想像」する力が。

 

話がずれまくってきたが

あの日、あの時、あの場所にいたコビーは

勇気を出した。

 

ある意味では「勇気」を「出さざるを得ない」状況であり

ある意味では「勇気」を「自ら」「出した」と言える。

 

シールズの奥田君の言葉を借りると

「巻き込まれつつ、巻き込んだ」と言えるだろう。

 

「勇気」というのは、理屈っぽく考えると

物事を「展開」させる要素がある。

 

おそらく「勇気」を出したことのある人なら

分かるかもしれない。

 

「嫌われるかもしれない」

「相手を不快にさせちゃう」などの妄想の類が

実は「錯覚」であったことを。

(実際に、相手に嫌われ、不快にさせることもあるが)

 

ピアニシッモの話はどこへ?

 

と言う人は、この文章を読んでない。