水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

「懐かしいラーメン」

ラーメンのスープを啜る時

世界の海を飲み干すような気になる。

 

干上がった陸にはもう麺も卵も叉焼もメンマもない。

 

確実に言えるのは

先にスープを飲み切る奴はいないということだ。

 

これはラーメンの決まりというか

仮に麵を少し残すにしろ、スープは必ず残る。

 

ラーメンだけが、唯一無二の「懐かしさ」を呼ぶ。

 

他の料理、たとえばパスタはたしかに「美味しい」。

 

しかし、それは「美味しい」だけなのだ。

 

なぜだかは分からない。

ー全てのラーメンがそうであるわけではないー

「懐かしさ」と「美味しさ」両方を「味」として

隠しているのが、ラーメンなのだ。

 

そして、最近、感じるのは今の自分がラーメンに求めているのは

「懐かしさ」であり、「美味しさ」は二の次だ。

 

初めて、生麺タイプの中華そばを食べた時も

そのように感じた。

 

「美味しい」のも言うまでもないのだけど

「なんか、店で作っている人や、そのお店の雰囲気が

見えてくるなあ」と思ったのだ。

 

二回目以降は、その感じがなかったのだけど。

 

たとえば「ホープ軒」は、美味しい。背脂もチャチャと

のっているし、スープも濃厚だ。

 

だけど、卓球部の時に食べた本店の味に比べると

「懐かしさ」がない。

 

ところで思うのだけど、「懐かしさ」とは「科学」できるものなのだろうか。

 

私は、村上春樹さんや丸山眞男さんなどの文章に

触れた時、なぜだか妙に「懐かしい」と感じた。

 

そこで書かれていること以上に、その「文体」が。

 

古典であるにもかかわらず、というか古典だからこそ

なのかもしれないが、「新しい」んだけど「古い」。

 

「古い」んだけど「新しい」話をしているように思えた。

 

つまり、懐かしさとは、

「古さ」と「新しさ」の融合感情だということだ。

 

ある種、その時代に使われていた言葉と

自分が新しく摂取した言葉のドッキング。

 

その組み合わせが上手くいけば、それは

「懐かしさ」として、人の心に残る。

 

ラーメンや、人の文章、それだけでなく

映像や、時代の空気も「懐かしさ」がある。

 

ラーメンは、平成の時代に進化した言われるが

もしかすると、ラーメンから、春樹さんが言うような「鉱脈」(物語性)が

見つかるのではないか、と考える。

 

ラーメンなら、それこそ「すみれ」や「喜多方」など

全国各地に存在する。

 

東京の人はそういうラーメンを生麺という形で

食べられる環境にいるのだ。

 

そこには必ず、物語が存在する。

 

そうだ。平成を総括する上で、ラーメンについて

書いてみるのも面白いかもしれない。