関わり続ける勇気~「から」の人間知

歌とからだが好きです。実験的に依存先(結び目)を増やしています。

対話(質問)することで、生まれてくる「言葉」がある。

笑い声が聞こえる。

 

あっはっは。

 

叫ぶ声が聞こえる。

 

うぉぉぉぉ。

 

そもそも、人間が解する言葉は

相手に伝わってるかは別として

何かを感じているはずだ。

 

たとえ、意味の分からない文面でも

「意味が分からない」という事が伝わる。

 

変な言い方だが、意味の分からないことを通じて

意味が分かることを言えるようになるというのも

あるのではないだろうか。

 

たとえば、「カレーを割った」。

 

これは、普通の人が聞いたら

「意味の分からない文面だ」。

 

だから直す。「カレーを食した」と。

 

話は変わるが自分が最近、考えているのは

少ない量の言葉で、自分の生活を支えているのは

ジリ貧であるということだ。

 

大学時代の恩師の書いた本で

「言葉が足りないとサルになる」という本がある。

 

今読むと、文体がちょっと嫌だったりすることもあるのだけど

そこで語られていることはおおむね正しい。

 

豊饒な言葉で説明する大人に出会わないと

子供は子供のままの言葉遣いで、成長しないという発想は

その通りだと思う。

 

この先生の他にも「言語化」をうるさく言う人はいて

私はどちらにも、何かしら得体のしれない感情を持っている。

 

「それができたら苦労はない」というのも

そうなのだが、なんというか

体力というのか、アタマのストックを

会話の中で出せる力が必要で

基本的に「なるほど」とか「そうなんだ」で

会話を済ませる癖のある自分にとって

このアドバイスは苦しいものがある。

 

なんでもそうだが、自分が嫌がることを言ってくる

「でも正しい」言葉をどう受け止めたらいいのか分からない。

 

人によっては「無視するのが一番」だというだろう。

 

しかし、自分で考える限り、アドラーの教えが劇薬であり

なぜか忘れられない影響力を持っていて

今はその教えを実践しているように

その岡田先生が書いた「言葉を使おう」という

メッセージも、なぜか忘れられないのだ。

 

「言葉が足りないとサルになる」とは

自分にとっては、きつい言葉である。

 

センセーショナルというか扇情的というか。

 

しかし、本を読んでいくと

それだけが伝えたかったわけではないことは分かる。

 

特に、意図や論理、評価というものをする文化がないと

その世界(たとえばサッカー)は発展していかないと言っている。

 

自分でもYouTubeにあげている動画があるけど

「何かできちゃった」作品が多くて

たとえば「これは、どういう思いで作ったんですか?」

と問われても、何も答えられない自分がいる。

 

いやもちろん「添田唖蝉坊の動画を見て

似たようなものが作りたくなって、それこそ

最近、時事や政治をネタに歌う歌がなくなっている感じがしたので

自分で作ってみようと思いました」

と答えることはできる。

 

しかし、そんなものだ。

 

そんなものなのだ。今現在自分が使える言葉というのは。

 

しかし、同時に「もっと喋りたい」という気持ちは

自分にはない。

 

外部委託というか、人が喋っていることを

「うんうん」と分かるぐらいでいいのではないかと

思ってしまう。

 

そもそも自分の考えだけ言うと

「おしゃべり」というのは、相手なくして

できない行為だ。

 

だから、どんなに一方的に話したいことがあっても

話すのはできない。

 

と、自分は思っている。

 

相手がどういうタイプか、語彙力があるのかないのか

この言い方で伝わるか伝わらないか、脱線していいかダメか

と非言語情報で読み取りながら伝えている。

 

自分は昔は割と直感タイプだったが

ある時から論理タイプになり

最近は、論理と直感を往復運動している。

 

で、結局思ったのは、論理と直感というのは

連動していて「直感なき論理」はないし

「論理なき直感」はない、ということだ。

 

「こっちの道に行きたい」と思ったとしても(直感)

確実にそこに行きたい(論理)が存在しているはずだ。

 

ただ、人はそれを「言語化」できないから

「直感」と呼んでいるだけで

実は「直感と論理は近い関係にある」と思う。

 

将棋でも理詰めで考えた結果、「ここだ」

という一手を打てたりする。

 

そういう世界だ。

 

そういう意味で、今まで「音楽は好きだから」で

おさめてきたけど

「リズム」とか「メロディ」とか「ハーモニー」とか

「感情をダイレクトで揺さぶってくる歌声」とか

まぁ、考えてみるだけでも色々あるし

そこの演奏に纏わる「技術」についても

評価することができる。

 

そこでも「リズムが好き」→「なぜ好き?」

とか「この曲のどういうリズムの編成が好きなの?」

とか、質問を変えることで、対話が生まれる。

 

そうなのだ。結局、対話とは何かという事の

暫定的な答えがあるとすれば、それは「質問」なのだ。

 

「カレーが好きなんだ」「カレーのどういうところが好きなの?」

「スパイシーなところ」「スパイスにも色んな種類があるけど

どういうスパイスが好みとかありますか?」

みたいな会話も、本来ならできる。

 

結局、現代人の多くは自分の好きなことに関して

言葉で「詰めて」考えることをしていない。

 

それがある種、自分の限界にもなっていることは

薄々気付いているはずなのに、結局、思ったのだ。

 

「質問を変えれば、返ってくる言葉が変わってくる」と。

 

 

 

遠藤賢司さん。出会い系と仲人の二刀流。オリジナルな幸せ。

はやくできないか~カレーライス。

 

どうも、遠藤賢司さんにハマっている男です。

 

アングラフォークの代表格の遠藤さんの

「カレーライス」。

 

もし、興味があれば、YouTubeで見てみてくださいな。

 

ニャーゴ唱法とも呼ばれているらしい裏声の技。

 

にゃー。にゃー。にゃー。

 

オブラディ・オブラダ・ちゃんちゃんちゃんちゃーん。

 

そんな歌があったよね。

 

こんな歌もあったよね。

 

あんな歌もあったよね。

 

それだけがすべてさ。

 

愛が全てさ、今こそ誓うよ。

 

もっと強く。

 

もっと激しく。

 

軍人マルス、ってなんか覚えてる。

 

パピコでちゅうちゅう、しているよ。

 

ラジオで収集しているよ。

 

そういえば、昔よく聴いていたラジオで

「辺境ラジオ」ってのがあって

名越康文さん、内田樹さん、西靖さんの三人が

やっているラジオ番組なんだけど

最初は何か面白かったんだけど、

途中から飽きてしまい、見なくなったなあ。

 

最近、ラジオらしいラジオを聴いていないけど

ラジオって、声だけ聴けるいいメディアな気がするよな。

 

間違いない。

 

ラジオは、ええぞ。間違いない。

 

振り出しに戻っただと。

 

何を言う。

 

いい加減にせい。

 

そんなだから、結婚相手が見つからないのだぞ。

 

何?それはない?

 

何がそれないんだ?

 

何?出会い系アプリを今度教えてもらう?

 

そして、しょぼ婚のすすめという本を読んで

「結婚したい」ということを

色んな人に伝えるだと?

 

出会い系と、紹介の二刀流だと?

 

ぐぐぐ。羨ましい。

 

わしは、もう枯れ木の賑わい。

 

そんなことを考えることもなくなったよ。

 

いや、俺も最近までは「まぁいなくていいか」

と考えていた。

 

しかし、どんなにお金もっても、どんなに

歌がうまくなっても、どんなに名声や権威が手に入っても

ひとりの異性と生活してなかったら

「幸せ」はないんじゃないか、と思うようになった。

 

異性に依存したいとかそういうのではない。

 

単に、岸見アドラーが言うように

「幸せ」になりたいだけ。

 

仕事のタスク。交友のタスク。そして愛のタスク。

 

一番、難しい「愛のタスク」は

通常、家族や恋人だと言われている。

 

一人でいいから、そういう人に巡り合いたい。

 

自分の力でつかむのは「出会い」だけど

他力を使って「出会い」のchanceを作りたい。

 

ワンモア、チャンス、最後にかけてみたいんだ~。

 

そうだろ?

 

だって男なのだから。

 

自分の力で今まで何とかしてこようと思っていた。

 

しかし、自分の力のほとんどが

自分の力ではないことも最近、少しずつ分かってきた。

 

環境という「えにし」。

 

そういう周りの「輪」のようなものが

自分を形作っている。

 

それがなければ、私は今、立ちあがることさえ

できていなかったかもしれない。

 

それぐらい、周りの人に助けられている。

 

そしてまた助けてもらおう。

 

今まで、人を頼ってこなかった。

 

自分は頼られる側だから、強くならなきゃいけない

と思っていた。

 

しかし、今は周りに頼る相手がいる。

 

頼って、頼って頼る。

 

それが、人と人とが関わるということだ。

 

便りがなければ、頼れない。

 

逆に、便りがあれば頼れる。

 

そういうものでござる。

 

ダイスをころがして。

 

出た目の数だけ進む。

 

人生はそういう風にできていない。

 

後進もする。

 

前進もする。

 

休憩もある。

 

だがやがてまた歩く。

 

その繰り返しだ。

 

私は今、面白い地点にいると思う。

 

このまま、異性との出会いを求めず

一人の世界で自足するのか。

 

それとも、自分の力と他力を合わせて

「出会い」を作って、それを形に変えていくのか。

 

ここまでくるのにかなり遠回りをした感はいなめないけど

ようやくここまできた。

 

ここまできたからここまできた。

 

おめでとう。

 

あとは、いけるところまでいけばいい。

 

あとは、幸せをつかみに行けばいい。

 

流行と不易。その中で

変わらないものと、変わるものを見つめ続ける

そんな男に、私はなりたい。

 

飲んで~飲んで~飲まれて~飲んで。

 

そんなアル中にはならない。

 

いや、この歌は名曲中の名曲だけど

やっぱり、アルコールで身を崩すようなはめになったら

おしまいだと思う。

 

もちろん、自分には両親だけでなく

おじいちゃん・おばあちゃん親戚一同の血が

入っているから、色んな影響から

抜け出すのは簡単ではないと思う。

 

しかし、人生はシンプル。

 

そんなに難しくはない。

 

対人関係に踏み込み続ける勇気さえあれば

この世界は、何とかなっていくものだ。

 

成功は量的。

 

幸せは質的。

 

幸せは各人にオリジナルな要素を持つ。

 

だから、他の家庭が「不幸だな~」と思っていても

自分たちが「幸せ」でいれば、それでいいのだ。

 

まさに、それでいいのだ。

 

しかし、それは、政治と全くコミットせず

自分たちの世界で完結することを目指しているわけではない。

 

むしろ、逆で政治問題に関心を持ちつつ

いい距離をとりながら、暮らしていくのである。

 

昔、ある人の記事を読んだ時

「者間距離」という車の言葉の造語を

見て、えらく感動したことがあって

遠すぎず、近すぎない距離こそ、人間関係の肝であると

私は学んだのだった。

 

相手と自分との距離感こそが

この生きる世界を、楽しくやっていくコツである。

 

 

 

 

 

万城目サンダー。話しやすい場所。なくても死にはしないYouTube。

ゆるゆるり。

 

ゆるゆるり。

 

ゆっくりぽいぽい。

 

ハンターハンターって最近、どうなってるのかな。

 

「万城目サンダー!」ってのが昔流行って

それこそ、高校時代の友人に

「アレクサンダー近藤」ってのがいて

そいつのことを「サンダー!サンダー!」

って読んでいたっけか。

 

ポケモンにも、サンダーってのがいて

電気ポケモンで、伝説級の鳥だ。

 

電気っていえば、昨日の回で

電流とか回路とか出てきたよな。

 

意外と、電気にまつわる言葉が好きなのかな。

 

ああ。怪盗ルパン。

 

ああ。斎藤ご飯。

 

がっくし。がっくし。

 

インドにいったことがある人?

 

イタリアでもいいよ。

 

ぼくはね。韓国に一度だけ行ったことがあって

そこで焼き肉を食べた。

 

骨付きカルビは美味で、ハサミみたいな奴で

切るんだけど、まぁそこそこ楽しかったなあ。

 

今は、日韓情勢が危ういからなかなか

行きたいとは思えないけどね。

 

焼肉といえば、肉を焼くバーベキューだね。

 

多摩川でやったなあ。家族連れというか

他の友達とその家族と一緒に。

 

父親が酔っぱらって「むかついたから」

「バット」で「止めた」のを覚えている。

 

しっかりしてくれよ!ってね。

 

はじまる。はじまる。ダンスダンス。

 

雰囲気って、大事だよね。

 

その人の雰囲気というか、その場の空気。

 

人に話しかけやすいかって、その人個人の問題

だって思われがちだけど、ぼくはそうは思わない。

 

その場の空気と言うか、どういう場所なのかが

大きな要素をしめると思う。

 

息が詰まりやすい場所なら話してても

盛り上がらないだろう。

 

そういう意味では、今利用している、社協という場所よりも

ペアテラスで飲んでいる方が開放感のせいか

話が弾んでいる気がする。

 

そういう場所が沢山あるといいんだが。

 

沢山、で思い出したけど

沢庵っているよね。

 

バカボンドでも出てくる。

 

あの人の凄味って、何とも言えないというか

ただの生臭坊主じゃないところだよね。

 

歴史は知らないけどその前の戦国時代で

相当の猛者だったんじゃないか。

 

もさもさ。もふもふ。

 

しらないと思うけど、最近腕のほくろから

毛が生えてきて、このままジャックの豆の木みたいに

成長したら、それこそ、うえきの法則みたいに

ごみを木に変える力、みたいに

すごい能力になるのではないか、変な妄想をしている。

 

わっかをつくって、ほいっと投げる。

 

これをわなげと言うてます。

 

わなげは、的に投げてます。

 

当たりは、お面の商品です。

 

ラッキー。ゲットだぜ。ピッピカチュウ

 

運動会は楽しかった?

 

いやいや、あんなの。

 

そうなんだよね。結局、あの会って

親のためにあるようなもので

楽しくない人達も大勢いると思うんだよ。

 

親を喜ばせるというか

親戚一同を喜ばせるというか

親縁というかね。

 

ぼくはあんな会より

みんなで歩くウォーキング会の方が

いいと思うんだ。

 

今からでも、運動会を検討して

ウォーキング会にしたらいいと思うんだ。

 

もうかれこれ、半年は越えた。

 

ウォーキングが異常に続いている。

 

雨の日は基本的に休むけど

逆に習慣化されてきたから「歩かない」と

気持ちが悪い。

 

最初の頃は、「またウォーキングか」とか

「今日は行きたくないよ」とかなっていたけど

最近は、「そうだ。今日はウォーキングまだ

行ってないぞ」となり、出発する。

 

もちろん、日によって、足が軽い日、重い日はあるわけだけど

ほぼ毎日続けている。

 

がらくただらけのおもちゃ箱。

 

たらりら。たらりら。

 

最近、YouTubeが面白くないんだよね。

 

俺はどちらかというと、過激なYouTubeよりも

こだわりの動画を上げている人が好きなんだけど

そういう人があんまり出てこない。

 

ただ、YouTubeなんてのは

昔、ニコニコ動画でたかび兄さん(塚田貴大さん)が

言っていたように、「なくても死にはしない」

ものであって、特に困りはしない。

 

出てこない時期もある、と思って

待っていれば、面白いのが出てくるはず。

 

はず!恥ずかしい。なんてね。

 

仁義なき戦いの終焉を知っているか?

 

俺はしらん。

 

というかヤクザ映画は苦手だ。

 

pistolでバンバン撃つからな。

 

なんで、ワンピースは好きなのか分からんけど。

 

たぶん、主人公が素手だからなんじゃないか。

 

もちろん、ルフィの場合、ゴムゴムの実を食べているので

素手でも強力なわけだが

活人剣よろしく、殺しはしないというところが

この漫画の肝であると前々から踏んでいる。

 

ちょっと話外れるけど、どうやったら人は

大人になるのだろうか?と考えた時

「欲望されること」と答えることが出来る。

 

つまり、眼の前にいる子供が「こういう人になりたい」

と思ったらいいのだ。

 

それは、人によっては、どれだけ稼いでいるかとか

地位や名声を持っているかかもしれない。

 

ただ、個人の信念から言わせてもらうと

そういうものがなくても

人から欲望されることはある。

 

「大人」とは、これこれの要素を兼ね備えた人物であるというのは

嘘だ。

 

色んな大人がいて、その色んな大人の一人から学ぶ子供がいる。

 

昔、先生はえらいで書かれていたけど

先生は腕組して待っていてもやってこない。

 

自分から行かないと駄目なのだ。

 

 

~回路。軍隊の怖さ。ティーンズラブと接合部。

あちらこちら、に俺がいる。

 

そんなわけないじゃないか、と俺が言う。

 

でも、そんなわけがあるんだな、と俺も言う。

 

パーマネント、ってなんだっけ。

 

飼い馴らせ、おかず。

 

なりたいものは、特にない。

 

借りたいものも、特にない。

 

借りはある。今まで受けてきた教育が。

 

それをどう社会に還元するか。

 

しかし、そうはいっても、自分に入っている知識や技術というのは

たかが知れている、と思ってしまう。

 

そうだろ?

 

そうじゃないか。

 

28歳の若いんだか若くないんだか分からない

領域に潜むこの俺が、何を言う。

 

決して、リライトしねえ。

 

頑張れば何とかなるって?

 

ならないから、頑張らないって?

 

どちらも違う。

 

どちらも、二極の内の一極を表した表現に過ぎない。

 

今ふと回路の実験を思い出した。

 

~電流。~回路、みたいな。

 

心なしか、面白かったと思っている。

 

なんだろう?つながったり、つながらなかったりするのが

不思議だったんだろうな。

 

言葉も同じで、つながる言葉とつながらない言葉がある。

 

そして、つながる。

 

そして、つながらない。

 

菜っ葉は食べるかい?

 

さっぱり分からない。

 

キルミー、壊れそうなくらい、甘く口づけて。

 

味わいの深さがあるのか。ないのか。

 

軍隊は、怖い。なぜなら、軍隊は

暴力を振るうから。

 

この世界の片隅で、暴力を振るうのは結局、

「組織」だけだ。

 

組織が嫌で、フリーランスとか個人で稼ぐ人もいるだろう。

 

しかし、「組織」は、悪いのもあればいいのもある。

 

自由闊達な話し合いの場があれば、その「組織」は

悪い環境にはならないのだ。

 

というごく普通の当たり前の月並みな話をしている。

 

軍隊の話に戻そう。

 

軍隊は隊列行進をする。

 

北朝鮮なんかが典型的だ。

 

それにしても、なぜ軍隊はあんな硬直しているのだろうか。

 

自分から緊張しています、と見せているようなものじゃないか。

 

緊張しいの人がなっているのか。

 

キンチョールでもかけちゃえ。(笑)

 

そういえば、ルー大柴っていう人がいるんだよ。

 

彼は、アメイジング~とか、ソリチュード~とか

ジャストタイム~♪とか言って、おどけて人を笑わせてくる。

 

何が凄いって、ただ文章の中に横文字を入れているだけなんだ。

 

喋り言葉の中に横文字を入れるだけで

「ちょっとウザい、でも可笑しいおじさん」の出来上がり。

 

一分30十秒てきな、チン。

 

今日はペースが速い。流石に無内容な事を書いてるだけあって

でも、つながっている。

 

つながっていると言えば、俺は同人誌とかティーンズラブ漫画が好きで

よく、無料で読んでいるんだけど

接合部のシーンって、なんであんないやらしいんだろうな。

 

たしかに、何かいまいちピンとこないものもある。

 

でも一方で、これは燃えるで、と言うようなものもある。

 

もうかれこれ、半年は同人誌、とティーンズラブ漫画にお世話になっている。

 

いや、もっと前からか。

 

前田前田、っていなかったっけ?

 

大好き。

 

忍者、って、忍び耐える、人のことを言うんだよ?知っていた?

 

これ、色んな解釈があるんだけど

個人的には、一問一答でYouTubeやっている

大愚住職の解釈が好きで

「背景を知る。どういうことがあったのかを知る」

って言っていて、面白いと思った。

 

背景を知れば、たとえば、「いじめ」とかでも

水に流せるとまでは言わないけど、受けた傷口を

自分で傷つけることはなくなるということなのだろう。

 

背景。風景。産経。

 

どれも、景色だ。

 

おっと、産経は違うか。新聞会社だった。

 

そういえば、大手企業は、今回のコロナで

かなり手痛いダメージを受けているそうだな。

 

そりゃ、そうだ。消費者というか大衆というか

マスというか、マスターベーションというか(え)

相手にしているもんだから。

 

結局、どの地域も「観光」化をやっているけど

移動ができないんじゃ、売れようがない。

 

それもそのはずで、地元住民は当たり前にあるものだから

観光商品をあんまり買わないわけで。

 

結局、内田樹さんが言っているように

「外来の物」と「自分たちのローカルな何か」を

習合して、結びつけて商品開発しないと

地元の人でも買ってくれるようなものを創るのは無理だ。

 

無理筋だ。

 

まん・・・を言いそうになった。

 

俺って、なんだかんだ言って「下ネタ」好きと言うか

友人も美人な職員さんを観て「ぼく、えっちですから」

と言っていたけど、割とオープンじゃない下ネタというか

オブラートに包む下ネタは好きなんだよな。

 

ティーンズラブでも、序盤からやっている漫画は

「ちょっと、最初から激しすぎ」って、引いちゃうもんな。

 

ヴァギナって、なんだっけ?(おい)

 

もうちょっとまともなことが書けないのかい?と

言われそうだが、アンドロイドは夢を見ないんだから

アンドロイドじゃない自分は、妄想・空想に

想いを馳せたっていいじゃないか。

 

フライト。飛べ。飛べ。飛べ。

 

フライドポテト、ってあんまり好きじゃないけど

マックのポテトは塩加減が絶妙で、美味しいと思っている。

 

熊もいるよね。奥多摩。というか

森と言うか、林っていったら、いいのかな。

 

ああいう場所は、ベアーの出る幕はないよね。

 

頑張れ、ベアーズ!

 

無茶苦茶やな。お疲れ様。

 

 

いきおいに任せて書いてみた

どちらにしろ、俺たちはかっこいい。

 

というのも、限界があるからだ。

 

限界なんてとうに、捨て去った。

 

いや、限界という文字に不可能という文字はない。

 

分かるか?この言葉の意味が。

 

分かってくれ。この言葉の価値が。

 

限界には、限界がある。

 

当たり前だ。それが限界の限界性だ。

 

今、二つのことを言った。限界には限界がない、ということと

限界には限界がある、ということ。

 

これはいわゆる、カントが言っていた

「世界は有限である」と「世界は無限である」

アンチノミーの話であり

矛盾しない。

 

限界を単純に、人間の身体レベルの話に置き換えれば

人間は、寝たり食べたりしないと生きていくことが出来ないから

それは、鍛えたりし続けることはできない。

 

あほらしい話と思うか?

 

しかし、それこそ、唯一無二の話なのだ。

 

村上春樹さんは、勢いが大事だと言っている。

 

書くことを決めないで、とにかく書く。

 

読書猿さんから、昨日教わった「マラソンライティング」を

今、試しているのだけど

ほとんど、中身を考えずに書いている。

 

面白いのは、書いているリズムに合わせて

楽しくなっているということ。

 

今まで文章は、自分で読み返してヤバいなと思う所は

修正しまくっていた。

 

いわゆる修正アダルト文章が今までの文章だったわけだ。

 

しかし、今日のは違う。

 

修正点、ゼロだ。

 

唯一、前と変わってないのは

この文脈、おかしいなあ、と思ったら

ひっこめて、書く、ということで

我慢比べに近い世界だということだ。

 

そういえば、我慢比べといえば

両手相撲というのがある。

 

二人一組でやる遊びなのだが

二人で立って、両手で押し合うのだ。

 

倒れたら負け。押し出した方が勝ちだ。

 

意識して、攻めすぎると自分からバランスを崩してしまう。

意外と、奥が深く、それこそじゃんけんに匹敵するレベルの遊びだ。

 

私は、これをかつてやりまくった。

 

同級生だけだが、とにかく押しまくった。

 

どーん、じゃんけんぽんに近いというか

とにかく、相手の動きをよく見て、押し出すのだ。

 

力が強いとか関係ない点でいえば、合気道に近いとも言える。

 

合気道の力は、消力、(シャオリー)で、力みとは正反対だ。

 

どこまでやれるか分からない。

 

どこまでいけるか分からない。

 

ほら、限界の話に戻っただろ?

 

これが、言葉マジック。

 

言葉は言葉を呼ぶ。

 

情報は情報を呼ぶ。

 

人であれ、物であれ、文化であれ

「つながりたい」という奥深い感情がある。

 

考えるな。止まるな。いや、止まれ。

 

決して、無駄にはならないこの思い。

 

99点を目指しているぐらいなら、とにかく1を出す。

 

およよ。もう1000字を越えた。

 

時間差はあるものの、限界はない。

 

野放しにされた言葉たちが、いまつながり始めようとしている。

 

おっと、また推敲してしまった。

 

そしてちょいと疲れた。マラソンライティングとは本当なのだな。

 

風鈴とは、ちりーんちりーんとなる愉快な工芸品である。

 

そういう意味では、自転車のベルは対照的である。

 

もし、自転車のベルを風鈴に取り換えて

そこにくっつければ、人を通り越す時に

不快感を与えずに通り越せるのではないか。

 

発想が既に限界を超える発想である。

 

従来の、限界は限界だ、と考える発想に対して

限界は限界ではないをぶつける。

 

まさにアウフフーベン。止揚だ。

 

しかし、自転車に風鈴とは今までにないアイデアだ。

 

流石に夏以外は、やると風情がなくなるが

よく考えれば、風鈴ベルが夏ではないといけない

というのがそもそも常識的な発想すぎる。

 

あほだ。かもーん。秋冬春。

 

常夏の海が、みたーい。

 

なんて、男たちは言う。女たちも言う。

 

あほらしさにかまけて、ビーチバレーボール大会。

 

そこを横目に見る、40代の主婦。

 

珍しさは、世界を変えていく。

 

大学生のノリは、世界を変容させていく。

 

時間はない。時間はある。どちらが本当だろうか。

 

いや、現実にはどっちも本当だろう。

 

川はない。川はある。目の前に「川」が見えたら

「川」は「ある」だろうか。

 

量子力学的に言えば、観測者がいて初めて

情報は存在する。

 

そういう意味で、観ていない時「川はない」。

 

観たら「川はある」。

 

限界はない、限界はある、の話もそうだ。

 

自分で限界だと思っていた時、ふと違うところから

光が差し込んでいることに気づく。

 

光の限界性が、限界性ではなかったのだ。

 

うう。書いている。久しぶりに書き殴っている。

 

殴り続けて、三千里。思えば遠くに来たものだ。

 

と、ボクシングの選手はみんな思っている

パンチグローブで、サンドバックを殴り続けていたら

向かう所敵なしみたいな感じになっているのだ。

 

現実的な進歩。現実的な対処。

 

あるところに、縮小していく世界があり

あるところに、拡大していく世界がある。

 

宇宙だ。人の世界も同じだ。

 

私の「出会い続き」というブログは

「出会い」を「紹介」するブログではない。

 

「出会い」で世界は広がる一方だ、ということを

もう一度確認していくためのブログである。

 

難解さをうたって、分からない文章を書く人はいるが

それこそ、分かる言葉を使って、分からないように

書く人がいる。

 

それが私だ。今後20分ライティングならぬ2000文字

ライティングを始めようと思う。

 

 

継承はやはり向いていない

今までは、偉い先生が書いた本を

有難がって読んでいたけど

何と言うか、その本から感じる

「俺の事を学べ」感を

発見するようになった。

 

村上春樹さんは、未だに好きだけど

学者が書いた本がいまいち読めなくなった。

 

むしろ、そこにある「縦の関係」の思想から

嫌な感じを感じるようになってしまった。

 

大学生だった当時は気づけなかった

それこそ、カミュが言う「厭な感じ」を

感じるようになったのは、面白い。

 

たとえば、永井均さんの本は今は読めない。

 

蠍の毒とでも言えようか、

「よく、昔は読んでいたな」と思うぐらい

読んでいると、厭な気持ちになるのだ。

 

今までは、学者の人が書いたことを継承して

自分が発展出来たらいいなあ、ぐらいに考えていたけど

こうやって、大学を離れてみると

いかに自分が偏ったものを読んでいたかが分かった。

 

話は変わるけど、かつて、内田樹さんの本を読んだりして

伝統芸能の後継者になろうと思ったことがあった。

 

しかし、結局、それは「自分」を変えるためというか

人から評価されたいとか、褒められたいとか

そういうことだったのだ。

 

仕事を通して、少しずつ分かってきたのは

「すごい」人になれば、評価されるわけではない

ということだ。

 

別に「すごくなくても」、人とやりとりができて

仕事をその通りできれば、感謝される。

 

アドラー的に言えば、仕事で、貢献していると

主観的に思えれば、価値があると感じられる。

 

仕事のおもしろい所は、少しやって

貢献感が得られないからといってやめるのは勿体ない

ということだ。

 

少しずつ、じわじわやりがいになっていく。

 

それがどういう仕事であるかはあまり関係がない。

 

職場が働きやすい場所であることが

貢献感につながっていく。

 

そして、アドラーの言う「対人関係」の中に

入っていく「勇気」を持つことができる。

 

「読書」はよくしているけど

ひとりよがりな文章が匂う人達の本からは

学びたくなくなった。

 

やはり、人は人と出会って

考えが変わる。

 

月並みな結論だけど、本「だけ」をいくら読んでも

成長しない。

 

ある種、人は「出会い続ける」必要があるのだと思う。

 

「出会い」は、それだけでは

何も、自分が変わっていくことにはならない。

 

自分が能動的に「働きかけ続ける」ことで

自分の人生が変わっていくのだと思う。

 

今月から、フースラーメソードの武田梵声さんの

「野生の声音」を受講開始します。

 

1960年代のアングラフォークがテーマです。

 

どういう形であれ、結び目を作り続ける。

 

「環境」というもので、人は変わっていく、と

感じている昨今。

 

地元だけに根をおろさないことは重要であると

感じています。

 

 

「どのように」分からないか

橋本治さんは、著書の中で何かが

「わからない」時は

「どのように」分からないかを考えて

「方向」を見出すという。

 

そしてまずは「分かり切っている」ことを考えて

分からないを解明するという。

 

たとえば、「今日、食べた」という文面を観た時

人は何を思うかと言えば

「何を?」だろう。

英語で言う「what」が思いつくはずだ。

そのようにして、人は「空白」というか

空いている部分を埋めたがる。

 

これは「what」以外でも同じだ。

「who」「when」「where」「why」など。

 

文面にこれらが欠けていれば、それを補うことは

そんなに難しくない。

 

しかし、問題は「how」である。

 

古典と呼ばれる読書が端的に言うと難しいのは

この「how」に由来する。

 

それこそ、ハウツー本は言われたことの通り

やればいい。

 

しかし古典は「どうやって」読んだ本を

自分の現実であり人生に生かせばいいかが

「分からない」のである。

 

人が書いてある以上、それは誰かしらの生き方の中身である。

 

しかし、それが「分からない」。

 

文字としては理解できる部分もある。

 

しかし、たとえば、「民主主義における多数決の意義」

の文面を読んだことによって、全会一致との違いが分かったからといって

少数派の尊重を意味していることが分かっても

それが、どういう風にして自分の人生に関わってくるのか分からない。

 

今だったら、少数派の権利を声高に言えば

「ノイジーマイノリティー」(権利だけ主張するうるさい少数派)

としてくくられるのが落ちだろう。

 

ニュースで政治を観る時に、たかだが

「政治家でも、多数決と全会一致の違いが分かっていないんだ」

と落胆するだけである。

 

たしかに、これらを混同するような社会はマズいと分かる。

あたかも「多数決」が「多数者の専制」を意味するかのように

あくまで「決め方」に過ぎない「多数決」が

「多数」が「正しい」というイメージを与える。

 

家族でどこかに旅行に行くというアイデアの中だったら

自分が「岐阜」で、両親が「沖縄」だった場合は

じゃあ「今回は沖縄で、次回は岐阜で」と寛容になれる。

 

しかし、法案などになると、観ている感じでは

政権与党が毎回、通しているように見える。

 

ここに、少数派の意見は盛り込まれているのだろうか。

 

つまり、繰り返しになるが

政治の「分からなさ」は

非政治性と言ったらいいのか

そこで得た学びを声に出すことはできるが

それが「どういう形」で世の中に反映させられるのかが

分からないということだ。

 

色んなメディアがある。

 

じゃあそこで情報発信すれば、現実が変わるのだろうか。

 

それこそ、政治を語る人が「変な」イメージをもたれやすい

世の中で、どういう風に自分の言葉が世の中に「反映」されるか。

 

自分は今現在、「地元で生きる」という言葉を撤回し

「地元で三分の一ぐらい生きていく」に変えている。

 

それは「地元」にコミットしすぎると疲れるからもあるが

それ以上に「地元」に関わっても、「地元」は

目に見える変化をしないからだ。

 

つまり「ただ」関わるだけでは、その地元の構成員になれない。

 

しかしふと思ったのが、「地元で生きる」ってなんだ?

ということ。

 

現に地元で生きている。

 

たぶん自分が言わんとすることは「地元の人と関わりながら

地元をより住みやすい場所に変えていく」

ということだろう。

 

ところがこれが難しく、たとえば

「老若男女が共に生きるような優しい共同体」は

当たり前のように想像できても

「どうやって」そういう共同体に変えていくのかは

分からない。

 

ということで、友人に相談してみます。(笑)