水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

三酔人経綸問答~国防はヤボの骨頂

弱小国が強大国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明をうぬぼれています。してみれば、彼らに、文明の本質である道義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながら実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。

 

もし、そうはしないで、こちらがもっぱら要塞をたのみ、剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむならば、相手もまたその要塞をたのみ、その剣と大砲をたのみ、その軍勢をたのむから、要塞の堅固な方、剣や大砲の鋭利な方、軍勢の多い方が必ず勝つだけのこと、これは算数の理屈、明白きわまる理屈です。なにを苦しんで、この明白な理屈に反対しようとするのでしょうか。

 

かりに万一、相手が軍隊をひきいてやってきて、わが国を占領したとしましょう。土地は共有物です。彼らもおり、われわれもおる、彼らもとどまり、われわれもとどまる、それでどんな矛盾がありましょう。彼らが万一、われわれの田を奪って耕し、われわれの家を奪って入り、または重税によってわれわれを苦しめるものとしてみましょう。忍耐力に富むものは、忍耐すればよろしい。忍耐力の乏しいものは、それぞれ自分で対策を考え出すまでのことです。きょう甲の国にいるから、甲国人なのですが、あした乙の国に住めば、こんどは乙国人ということになるまでのはなし、最後の大破滅の日がまだ来ず、わが人類の故郷たる地球がまだ生きているかぎりは、世界万国、みなわれわれの宅地ではないでしょうか。

 

まさしく、相手には礼儀がなく、こちらには礼儀がある。相手は道理にそむき、こちらは道理にかなっている。彼らのいわゆる文明は野蛮にほかならず、われわれの野蛮こそ文明なのです。彼らが怒って暴力をほしいままにしても、こちらが笑って仁の道を守ったとすれば、彼らはなにをすることができるでしょうか。プラトン孟子、スペンサー、マルブランシュ、アリストテレスヴィクトル・ユゴーは、われわれをなんと評するでしょうか。これを見まもる世界各国の人々は、なんと評するでしょうか。ノアの大洪水以前はいざ知らず、大洪水以後、いまだかつてこうした先例がないのは、まことに不可解なこと、なぜわれわれ自身まず先例とならないのですか。」

 

論理的には、分からないでもない。いわゆるヨーロッパ文明も、「人のふみ行うべき正しい道」である道義の中で培われてきたものなのだから、日本人がやるべきことは、自分たちの持っている「無形の道義」で応対する。そうすれば、軍備を拡張するより、対応が可能になる。もし、自分たちが軍備を拡張すれば、相手もさらに自分たちを上回る力で軍備を拡張してくる。そうした時、数の力で必ず負けるだろう、そういうことだ。

 

紳士君の主張はある意味、すっきりしている。理想的に言えば、それで済むならそれでいいだろう。しかし、これは三酔人経綸問答とあるように、問答であり議論だ。南海先生、紳士君、豪傑君の三人のやり取りだ。ということは、「現実はそうではない」という視点も出てくることだろう。

 

面白いことに以前読んだときはたしか、豪傑君的な軍備拡張論(たしか)に発想に反対していたのに、今読むと紳士君があまりにもロジカルジャンプというか「本当にそれで対応できるの?」と思わせる内容を喋っているように感じる。仮想として「侵略されても、特に矛盾なく暮らしていける」とまで言っているのは、とてもじゃないが納得できない。侵略されたら、その侵略した国の言う事をきかなければいけない。その時に「忍耐力」なんかでカバーできたら、人類と言うのは「戦争」をしていないんじゃないか。もし、それが日本人の道義だとすればそれは「侵略」という「現実」に圧殺されているだけなんじゃないか。これからの問答でそれらのことが腑に落ちるのかは謎だ。