水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

丸山眞男セレクションより「政治的判断」の③

第三節では、政治的な思考法というものが、われわれが政治家ではないから不要なのかどうか、という問題を取り上げています。確かに政治的な場に、政治的な状況にまったく登場しない人間というものを想定するならば、その人間にとってはこれは必要のない思考法である、と丸山は言っています。逆に、政治的な場で行動することを常とする人間、つまり職業的政治家にとっては必須の(それなしには政治家の資格のないところの)一つの思考法になるわけです。

 

必須の思考法であるというのは、単に権力を獲得し、あるいは権力を維持し、あるいは権力を伸張するという目的にとって必要である、という意味ではありません。もちろん、そのためにはもっとも必要な思考法でありますけれども、それだけでなしに、一般にこういう思考法なしにはほんとうの政治的な責任意識というものが成長しない。逆にいえば、どんなに個人的に徳の高い人でも、もしこういう思考法が欠けている、つまり政治的に未成熟であるという場合には、政治的な場でははなはだしい無責任に陥る。その人がとった行動が結果においてその状況に関連する多くの人間に、損害と迷惑を及ぼすということになるわけであります。

 

というふうに見ますと、そのかぎりにおいては、この政治的思考法は、実はわれわれに倫理的に必要な(道徳的に必要な)思考法であるといえる、と丸山は言っています。政治は肚であるとか、政治は人物であるとか、よくいわれます。そこには一面の真理はあるのですが、こういう政治観というものは、とかく政治状況の客観的な認識というものを無視、もしくは軽視するところに育ちやすい考え方です。

 

つまり、認識の錯誤からくる意図と結果との食い違い、自分が実現しようとする意図と結果との食い違いが「不徳のいたすところであります」、あるいはそれを逆にすれば「ずるい相手にしてやられた結果であります」というような弁解によって、そういう決定の政治的責任の問題が解除されてしまう。そういう伝統的な考え方は有徳な人なら政治的にも必ずりっぱな成熟度をもった指導者であるという、そういう神話にしばしばつながっております。あるいは、致命的な政治的錯誤を犯した指導者に対して、この人もお国のためを思ってやったんだから、つまり、その人の動機が純粋なところから出たんだから、ということでその人を是認する、あるいは弁護するという風潮にもつながるわけです、と丸山は言っています。

 

何というか、致命的な政治的錯誤を犯した指導者、と聞くと、昔の人なら戦争責任の人達をイメージするのだろうけど、自分は安倍さんを想像してしまった。自分はこの間、病気で政治から離れていたので分からないのだけど、安全保障関連法案や、安倍さん周辺の不祥事・事件などあるにもかかわらず、政治的責任を問われずまだ政権の座に居座っている。問題のある政権であるにもかかわらず、与党内からも安倍さんの非を指摘する声がほとんどない。

 

安倍内閣が仮に退陣した場合に、安倍さんは政治的責任をとる気でいるのだろうか。とてもそうは思えない。安倍さんのおもしろい所は、人徳的にはないはずなのに、トランプさんと同じで支持者が一定層いるということだ。しかし、トランプさんもそうだが、自分でしたことについて政治的責任をとる気がないのに、あれこれやってきたアメリカの歴史を闇に葬るみたいなことをして、彼らの「意図」はなんなのだろう。まさか、自分の国を灰燼と化した世界にして、そこからまた理想郷でも作ろうとしているのだろうか。それはある種の革命家のすることじゃないのか。

 

逆さまに感じる。本来「人徳がない」ということは、例外を除き人にはいい印象を与えない。しかしまさに「人徳がない」人達が、「人徳がない」けど「理想」はある政治家を応援しているという、とても頓珍漢な状況が生まれている。同族だから、近しい物を感じているのか、同族嫌悪を感じながらも「人徳」がある奴らより、政治をやっていると思っているのか。摩訶不思議の政治の世界。