水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

三酔人経綸問答~アジアの小島から精神的大国が生まれた

この言葉を聞いて豪傑の客が、洋楽紳士にむかっていうには、「君は気がくるったのじゃないか。くるっている、くるっている。大の男が百万人、千万人あつまって国をつくっていながら、一太刀も報いず、一発もお返しせずに、じっと侵略者の奪うにまかせて、あえて抵抗しないなどとは、気狂いざたじゃないか。ぼくはさいわい、まだ気がくるってはいない。先生もくるってはいない。ほかの同胞もくるってはいない。どうして紳士君の言うように・・・・・・」

 

南海先生が笑っていうには、「豪傑君、まぁ待ちたまえ。紳士君の話をしまいまで聞こうじゃないか。」

 

豪傑の客も笑って、「はい、はい。」

 

洋楽紳士がつづけていうには、「およそ政治を自任するものは、みな政治上の進化の神につかえる僧侶といってもよろしい。もしそうなら、眼の前のことに注意するだけでなく、未来のことをも心にかけなければなりません。それはどういうことかというと、進化の神というものは、進むことは好きですが、退くことはきらいなのです。その進むとき、さいわい道がまっすぐ平らできれいであれば、まことにけっこう。しかしたとえ岩石がつったって車の輪をさまたげ、イバラが馬のひづめを没するほど茂っていても、進化の神はべつにがっかりすることもなく、さらに一そうふるい立ち、足をあげて蹴とばし、平気でふみつけて進む。道理のわからぬ人民どもが、たがいに争って残虐な殺しあいをし、街頭には血の海ができて、いわゆる革命の活劇が演ぜられるにいたっても、この神は当然の結果とみなして、少しもひるまない。

 

だから、一身をこの神にささげてつかえている政治家ー僧侶は、あらかじめ岩や石をとり去り、イバラをのぞいて、神が荒びる必要のないようにつねに努力しなければならない。これが進化宗の僧侶の当然の職務です。岩や石とはなにか。平等の原理に反する制度です。自由の大義にそむく法律です。

 

イギリス王チャールス一世のとき、またフランス王ルイ十六世のとき、宰相、大臣など政権をにぎる者が、眼をひらき、心をひろくして、早く時勢を見ぬき、あらかじめ歴史の動向をおしはかり、進化の神のために道路を掃除しておくだけの用意があったならば、動乱をかもし出さなくてすんだでしょう。もっともイギリスのばあいは、それ以前にいましめの手本とすべき事例がなく、要するに最初のことだったのだから、為政者があらかじめ対策をたてることを知らず、敗北のわざわいにおちいったのも、大いに同情すべき点があります。

 

ところがフランスは、一世紀前にせまい海峡をへだてただけのイギリスで、むごたらしいわざわいがあったのを見ておりながら、けろりと反省することがなく、こせこせした一時しのぎの政策にたより、歳月を空費し、その場その場をごまかし、動乱のきざしがとっくに見えているのに、まだ病気をかくし名医にたのもうとせず、ぐずぐずと煮えきれないために人民に疑惑の念を生じさせたり、あるいは刺戟的な言動で人民の感情を憤激させたりして、その結果、空前のわざわいをかもし出し、血は国中にあふれ、全国が屠殺場になってしまった。それは果して、かの進化神の罪でしょうか。それとも進化宗の僧侶の罪でしょうか。

 

進化の神が出てきました。進歩派とも丸山さんが評された(丸山さんも進歩的文化人と言われていた)兆民のキー概念ですね。政治家は、進化宗であり、それこそ平等の原理に反する制度や、自由の大義にそむく法律を変えるようにしていかなければならない。話が前回の紳士君の主張から少し変化してきました。とても「当たり前」のことを言っていると思います。違う見方をすると、この「当たり前」のことをきちんと言わなければならないほど、このことは周知の事実ではなかったとも言える。そして、兆民はイギリスとフランスの国の例を対比させ、他国の失敗から学ばない国としてフランスの当時の政治家を批判している。これもまぁよく分かる。失敗例というのは貴重だ。ましてや、違う価値観の国が失敗している時に、自分の国だったらどうすればいいのかを考える。同じことがこの国でも起こるのではないか、と考える。そのためには世界と日本をリンクしてみることだろう。

 

世界史というと、自分の世界とは関係ないもののように感じていたが、兆民を読むと身近に感じてくる。