水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

三酔人経綸問答~民主主義者と侵略主義者の南海先生訪問

 一人は着もの、はきもの、上から下まで洋風で、鼻すじ通り、目もとすずしく、身体はすんなり、動作はきびきびちとして、言語明晰である。この人はきっと思想という部屋で生活し、道義という空気を呼吸し、論理の直線のままに前進して、現実のうねうねコースをとることをいさぎよしとせぬ哲学者にちがいない。

 

もう一人は、背がたかく腕がふとく、あさぐろい顔、くぼんだ目、カスリの羽織、きりりとした袴、見ただけでも、雄大ごのみで冒険を喜び、生命という大切なものをエサにして、功名という快楽を釣りあげようとする豪傑連中の仲間とわかるだろう。

 

席につき、挨拶がすみ、おもむろに洋酒がつがれ、主人とお客が盃のやりとりをするうちに、しだいにいい調子になってくる。先生は、一人の客を紳士君と呼び、もう一人を豪傑君とよんで、姓名をたずねようともしない。お客の方でも怒らず、ただ笑っている。そのうちに洋楽紳士がふと言い出すには、

 

「先生のご高名はかねがねうかがっております。先生の学問は東洋と西洋を兼ね、識見は古今を貫くということですが、私もまた、世界の形勢について、自己流の考えで見当をつけております。一度先生のご批判をうけたわまりたいものです。ああ、民主制!民主制!君主宰相専制政治は愚かしいもので、しかもその欠点を自覚していないものです。立憲制はその欠点に気づいて、やっと半分改めたものです。民主制はからりとさっぱりとして、胸のなかにこれぽっちのけがれもとどめないものです。

 

ヨーロッパ諸国はすでに自由、平等、博愛の三大原理を知っていながら、民主制を採用しない国が多いのはなぜか。道徳の原理に大いに反し、経済の理法に大いにそむいてまで、国家財政をむしばむ数十百万の常備軍をたくわえ、むなしい功名をあらそうために罪のない人民に殺しあいをさせる、それはなぜでしょうか。

 

文明の進歩におくれた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ちあがり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じいらないだけでなく、こちらが軍備を撤廃したのにつけこんで、たけだけしくも侵略して来たとして、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。

 

個人的には、「軍備撤廃する」という理想は評価できるとしても、問題は国民の「道徳」だけで、当時のヨーロッパ諸国の考え方(帝国主義)と向き合えるのかは、今のところでは分からない。たとえば、「全ては俺たちのもんだ」といじめてくる子たちがいた時に、いじめられる側が「ぼくたちは、君を攻撃しないよ」で、前者が納得するだろうか。相手の攻撃をかわすことができるとしたら、それは「逃げる」場所がある場合であり、当時の帝国主義の状況下で、日本列島から安全な地域に逃げられる場所はない。それはむこうとて同じなのだけど、向こうは帝国主義という発想の元、侵略してくる。この現実を見た時に、その非対称性の考えでいけば、やはり、国民の道徳だけで対応するというのは、無理があるのではないか、と「ここまで」では考えた。

 

まぁ、世界各国から日本の文化を知りにきている外国人もいるし、今では「文化交流」というのは当たり前に行われているし、明治の時代と比べれば、緊迫感と緊張感はないといえばないのだけど。歴史は繰り返す以上、アメリカファーストをうたう政治家がいる以上「帝国主義」はまだ死んでいない。そのためにその真っ只中にいた時代を学ぶことに意義はある。