水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

丸山眞男セレクションより「ある感想」

この小節では、明治の自由民権論に対する冷笑的批判に対して中江兆民がいろいろな個所で試みている反批判について取り上げています。なんと、驚くなかれ、進歩の立場に対する批判のパターンが六・七十年前の日本と今日とで驚くほど変わっていない、と丸山は言っています。

 

丸山は、中江兆民の言葉を取り上げ、いわゆる通人的政治家が民権論を「あんな思想はもう古いよ」といって斥ける論法はそのまま今日、社会主義いなデモクラシイの基本理念に対する一見スマートな批評としてそのへんにゴロゴロ通用している、と言っています。「行われるがために陳腐となった」のではなく、「行われずして而も言論として陳腐となれる」政治理念がいかにこの国に累々としているか、丸山は嘆いています。

 

「陳腐」な思想の実行を執拗に要求することはそれ自体が「野暮」のしるしと考えられ、その代わりに肌ざわりとか口あたりとかいうような感覚的な次元で言論が受け止められ批判される日本の伝統的傾向は、めまぐるしい「新鮮さ」の追求というマス・メディアの世界的通有性と重なり合って、兆民の指摘した批判様式は今日彼の時代より幾層倍も激しくなっている、と丸山は言っています。

 

公式論とか公式的とかいう批判のなかには、その公式の真理性を棚上げして、公式論=陳腐=誤謬という方程式に平気でよりかかっているたぐいのものがあまりにもしばしば見受けられ、丸山に言わせるとこういう批判形式こそ実は今日のもっとも「陳腐」な言論、だと皮肉っています。

 

さすがに、丸山さんがここでいうように、「デモクラシー」を「古い」という理由で批判する人は、もう多くない。しかしそうは言っても、今でも日本全体が「デモクラシー」(民主主義)を実践できているかと言えば、とてもそうは思えない。権利というものを行使する感覚が、日本は教科書的な政治教育しか受けてないせいもあって、ほとんどない。若い世代の政治から距離をとる姿勢も同様の出来事で、そういう「デモクラシー」の実践よりも、YouTubeで動画を撮ってみんなにみてもらったり、ツイッターで呟いて人から評価を得ることに勤しんでいる。中には、政治系の動画をあげている人もいるが、これを「デモクラシー」の実践と受け取るかは、評価は二分するだろう。

 

丸山さんが言うように、マスメディアだけに留まらず、メディアの力でめまぐるしい「新鮮さ」の追求のゆえに、政治に意識的にコミットするというよりかは、政治についてそれこそ新しい「知識」だけ学ぶ人になりがちだと思う。これもまた丸山さんが言うように「野暮」の「しるし」として。(以前、シールズを「情報弱者」と呼んでいた人達の発想はここにあるのかもしれない)

 

この小節では、さらに「進歩」の立場に対する第二の批判様式として、進歩派の生活態度に対する揶揄にすり替えるやり方があった。参議である井上馨を取り上げ、彼が自由民権運動家の生活を批判している。「束縛・圧制をしている民権家の言葉に、どれほど耳を傾ける価値があるのかな」といったニュアンスの批判である。兆民は、この批判自体は、受け止めた上で、それにどう反論するかを言っている。井上はこれに続けて、「だから諸君はなまじ民権論などにかぶれないで大いに人生を享楽し給え」と言う。

 

こういった言葉は、最近のネット言説をみても同じことだろう。「好きな事だけやれ」「自由を謳歌している俺。そうじゃない君」「人生、楽しんでる~?」などなど。一部、自分が少し盛った言説もあるが、おしなべてこれに似た類の「自己啓発」のようなものが流行りである。ここで注目すべきなのは、これに似た言説が、明治の時代からあるということだ。つまりその時代から日本の「自己啓発」文化は変わらない。ある意味、変わらない強みがあるとも言える。手を変え品を変え、様々な自己啓発があるのは事実だが、基本はこの参議井上馨の「快楽哲学」のようなものが、日本人には「受けやすい」という事だろうか。「進歩」の立場で行動するものは、自らのなかに深く根ざす生活なり行動様式なりの「惰性」とたたかいながら「同時に」社会の「惰性」とたたかうというきわめて困難な課題を背負っている、丸山さんは言っている。

 

たとえば、簡単な話が、自分が権利を行使することはやるが、他人の権利は蹂躙する。

これは、生活の惰性とのたたかい。そして、そういう言説が流布される「社会」の、あまりにも歴史が長い「伝統」とも言っていいぐらいの「快楽哲学」のたたかい、があるということだ。ウロボロスの輪のように、両輪でありどっちか片っぽだけ「たたかえば」いいわけではない。 

 

個人的には、ここで兆民が感じ怒りは、自由民権家の苦闘と苦悩を知らない自分にとって想像するのが難しい。ただ「快楽哲学」が猛威を振るっている日本の状況を見ると、怒りを通り越した兆民の悲しみがうすぼんやりと見えてくる。