荻上チキさんと永井玲衣さんの、
哲学対話を聴いていたら、
自分も手探りで、
哲学がしたくなった。
忍空の主題歌に、
「それでも明日はやってくる」
というのがある。
私はこれが不思議だった。
明日は、みんながなんとなく、
イメージしている、
暦やカレンダーのあの「明日」なわけだけど、
それが、「やってくる」とは
どういうことなのか。
「あいつが家にやってくる」
「ゴジラがやってくる」
「異星人が別の星からやってくる」
といった具合に、
自分の地点である場所に、
何かがこっちに向かってくる様子を、
私たちの言葉で、
「やってくる」と言う。
つまり、それがどういう方向からかは、
置いておくとしても、
最終的には、就寝時間に寝れば、
明日なるものは、
自分の「今」になっている、ということだ。
受け身で、
何もしなくても、
とりあえず、
明日はやってくる。
そこにポジティブなニュアンスがあるか、
絶望色のニュアンスがあるか別として、
明日はやってくるのだ。
だがそれはほんとうなのだろうか。
ここでその反対を考えてみよう。
「明日に行く」。
これはどんなに頑張っても、
無理だ。
今の時点で、
明日にタイムトラベルは不可能なのだ。
未来予測やSFはあるにせよ、
時間は、超高速に自力で動かせない。
不思議だ。
人の家には行くことができる。
どこかへ遊びに行くこともできる。
しかし、明日には行けないのだ。
あくまで今日は今日の範囲でしか、
動けない。
明日はやってくる、というのに。
行くことはできないが、
やってはくる。
これは対義語なのか。
まるで閉めることはできるが
開けることはできないドアのように。
ここでひとつ。
突飛な思考実験。
今日の就寝時に、
自分以外のすべての人が、
無呼吸症候群で亡くなった場合、
「明日はやってくる」か、問題。
何が言いたいのか。
つまり世界でひとりになった時、
「明日」なる概念は、どうなるのか、ということ。
おそらく、雲散霧消する気がする。
世界には複数の人がいるから、
通じる言葉が確実にあるのだ。
明日もその一例だと思う。
何度も言うようだけど、
希望/絶望のニュアンスを含め
「明日」は、誰かとの出会いと感情を、
予感している。
そうでなければ、
「明日」と「やってくる」は、
言葉として、
つながらない。
答えは出さないけど、
私自身、
この「明日はやってくる」に変わる言葉を、
いつか、哲学詩として、
書けたら良いなと思っている。
今日はこの辺で。
また今度、問いで、もやもやしましょう。