水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

丸山眞男セレクション~二十世紀最大のパラドックス

実は私、この集会にまいる前に多摩墓地に行ってまいりました。はなはだ個人的なことを申し上げて恐縮でございますが、八月十五日というのは、私の母の命日でありまして、しかも私の母は昭和二十年の八月十五日、敗戦の日に亡くなったのであります。私は当時兵隊で広島市の宇品におりまして、母の死に目に会えませんでした。ですから私にとって毎年八月十五日という日ははなはだ複雑な気持ちを覚えます。

 

正直のところこの日はなにかひっそりとすごしたいという気持です。大体個人的な体験とか実感とかいうことを公の場で話しますのは実は私の個人的な趣味に合わないのでありますが、八月十五日についてなにかしゃべれといわれますと、そういう個人的な体験をぬきにしては私としては語れない感じがいたすのであります。

 

私は戦後、なにかの折に「ああ、おれは生きているんだなあ」とふっと思うことがあります。というのは、なにか私は間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感じがするのです。それはあの苛烈な戦争をくぐった国民の方々でおそらく同じような感じ方をなされる人も少なくないとは思います。私もその一人であります。私の場合とくにその実感を支えておりますのは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。私がおりました広島市宇品町は原爆投下の真下から約四キロのところにありました。そのときの状況をお話すればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここでお話する気にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」-もしもこうであったら私の生命はなかった、したがって私の戦後はなかったであろうという感じ、いわば無数の「もしも」のあいだをぬって今日生きのびているという感じを禁じ得ないのであります。

 

久しぶりの文章です。ちょいと読書から離れていました。その間、私は期日前投票で「山本太郎」さんに投票してきました。小池さんが圧倒的に勝つと言われていますが、実際はどうなんでしょうかね。私たちの現実は、無数の「もしも」がありますし、誰が新しい都知事になるかはふたを開けてみるまで分からないのではないでしょうか。それにしても、ホリエモン新党はホリエモンの写真がポスターで二枚出ていましたが、あれは自分の宣伝としか思えないのですが、誰も咎めないんですかね。私は、最近ホリエモンというのは、JPOPなんじゃないかと思っています。ミュージシャンでも一回売れても、さらに多くの人に広まるように活動しますよね。自分なんかは、100人でもファンがいれば充分じゃないかと思うのですが、そうならない。さらに自分を売り出す。ホリエモンはおそらく「ねじれ」体癖なんでしょうけど、現実やネットの言葉が「ねじれ」体癖ばかりの言葉になると、疲れてきます。お前、何歳なんだよ、と。世の中を「斜め」から見てそれを「ずけずけ」言っていくのがいいことだと思っている。こういうのは、それなりに人に「伝わる」ならいいんです。しかし「赤ちゃん」みたいに、「ぼく、こういうの嫌だよ~。わーん」と泣かれてもこちとら、いちいちそれに答えていたらキリがありません。

 

私自身が、そういうネットの言葉に疲れてきた人なのですが、他の人は疲れないのでしょうか。常識的に考えて、周りの99%が子供である社会と、周りに10%は大人らしい大人がいる社会では、どちらが住みやすいか明白な気がします。前者は、みんなそれぞれの主張をしてくるのですよ。「これが好き」「あれが嫌い」と。そういう中で、政治していたらカオスですよ。好きなものが同じ同士で集まっても、意外と「飽きる」ことを知らないんですよね。友達がいないと。意思疎通が難しい人と話してこそ、面白いんですけどね。(一方的にしか話せない人はさておき)

 

最後は何だか珍しい愚痴みたいになりましたが、これからまた世の中は変化していくことは確実ですね。その時のために政治学があるんだと思います。常に変わらない何か。失敗から学ばないと、歴史は繰り返されるだけ。グッバイ。