水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

嫌われる勇気を長年愛読している人の序章の、要を得ない要約1

まず初めに断っておくと、自分は「嫌われる勇気」を読んで、割と考えが二転三転していた時期があります。それぐらい、この本は「自己啓発」でくくるには惜しいほど、深みがあります。今も実践中ですが、理解はまだまだでしょう。幸せになる勇気や関連著書を読んでいないと、誤読するのが岸見アドラー&古賀さんの編集マジックです。

 

そこも併せてお伝えします。

 

哲人と青年の対話編というのは、その通りなのですが、この青年は悩みが多く、とにかく哲人に対して、突っかかります。初めて読んだときは「こんな攻撃的な人、現実世界にいないだろw」と思っていたのですが、読み返してみると、割と理知的な部分もあり、「先生のご持論に乗っかった上で」という風に言っており、学問の作法も知っています。

 

ある著書に対して、議論が展開されていることから離れて考えるのは、学問の世界では御法度です。私は大学時代それをやって、先生から注意を受けました。その点では、この対話編は、お芝居を観てるようですが、一方で正統的な対話形式です。

 

最初の「世界はどこまでもシンプルである」ということですが、私はこれを聴いた時に違和感がありました。学問や社会科学の世界では「世界は複雑系」ですから、この主張は「本当なのかもしれないけど、大学で少しは学んできた自分にとっては信じれない」と思いました。

 

しかも、人生もシンプルだというわけです。世界は「信じがたいほどに」という形容詞もついていますので、本当にこの哲人はそう考えているわけです。

 

自分は思いつきませんでしたが、青年はきちんと分けて考えます。「理想論としてではなく、現実の話としてそう主張されるのですか?」と。たしかに、理想的には、「人生も世界もシンプルであってほしい。そうであるべきだ」と考えるのは、人間なら少なからずあります。

 

しかし、哲人は現実の人生もシンプルだ、と考えており、青年と真っ向から対立します。個人的には、最初のセリフである「あらためて質問します」というのが、「嫌われる勇気」の0章みたいな感じで、気になるのですがそこは置いておいて、とにかく、青年は、哲人が主張する「人は変われる。世界はシンプルである。誰もが幸福になれる」というのを信じていないようです。

 

今の現状で言えば、私は一番目の「人は変われる」というのは本当だと、自分自身の経験から考えていますが、世界はシンプルであると誰もが幸福になれる、はまだ確信がなく、「やっぱり理想なんじゃないか?」という思いも未だ拭えません。

 

話を戻しますが、青年の面白いところは、「質問」として「世界&人生がシンプルである可能性」を考えようとするところです。

 

彼の出す子供の生の例は、今読むと「ちょっとステレオタイプというか、あくまで話を分かりやすくするためだよなあ」と思いますが、まぁたしかに、子供は労働や納税の義務もないし、親や社会に守られて、自由気ままに生きているし、自分がなんでもできると思ってるし、醜い現実を観ないで、鬼滅の刃を観たりしています。たしかに、その中の世界は、鬼滅の刃は観てないので本当は「シンプルであるか」何とも言えませんが(笑)、人生はシンプルにできていると感じているでしょう。

 

その反対の大人はどうかといえば、「お前なんてこの程度だ」と虐められることもあったり、いやというほど現実を見せられ、「自分には可能性があるんだ」というところから、「俺にはできない」と不可能性と反転して、「子供時代はよかった」という幸福なロマンティシズムの季節が終わり、残酷なリアリズムがきます。

 

この説明を聞いただけでも、自分の実人生からも「到底人生や世界はシンプルだ、とは思えない部分もある」と思ってしまいます。

 

つまり、岸見アドラーの考えを実践中な自分ですが、「シンプルに考える」と「人生はシンプルだ」という境地には乖離があるわけで、まだ岸見アドラーを実践してから、実人生で、半分は経過してない自分にはそうとは思えないわけです。

 

とりあえず、序章の半分ぐらいの説明が終わりましたが、本来、読書というのは、要約の困難さを孕んでいます。ましてや対話篇などは、対話形式で見せるしかなかったりします。なので、今回の説明も観てる人にとっては「?」かもしれません。

 

次回、いつになるかわかりませんが、自分の調子次第で、序章の続きをやります。

 

読んでくれて、ありがとう。