1000作品以上、
詩を書いた自分にとって、
詩とは何か、ということについて、
書いてみたい。
まず、何より自由であるように見えて、
自由ではない、ということ。
たとえば、「平和」一つとってみても、
自分が言う「平和」と、
戦争を経験していた人が言う「平和」とでは、
ニュアンスや意味合いが違う。
どちらが、上とか下とかではなくて、
重みや深みでもなく、
前者の「平和」は、
数ある言葉や文字の中の「ひとつ」でしかなく、
後者の「平和」は、
かなり、身体実感に基づくものだと、
言ってよい。
そして、前者である私は、
「平和」が使えない。
書いたことはあるかもしれないけど、
後で読み返すと、
「浮ついているなあ」と分かるのだ。
逆に、日ごろの素朴な日常を、
丁寧に掬い取ると、
後で読み返した時、
「悪くないな」と感じることがある。
一時期、amazarashiにハマっていた時期は、
歌でも、「政治」や「戦争」について、
歌ってやるぞ、と意気込んでいたけど、
この発想が自分の中で空回りしていることが、
詩を書く中で、
分かってきた。
大事なのは、
小さな、
誰でも一見使えそうな言葉に、
命を灯すことであって、
それ以外の何物でもない。
面白いと思うのは、
詩を書いていく中で、
自分の好きだったYouTubeの、
浅さに気づいていくということ。
テレビの方が面白いというつもりはない。
しかし、こうやって、
今でいえば、
石垣りんさんという戦後詩人の、
詩を読んで、
そしてブログに、
自分の詩を書きつけていると、
新しい言葉など要らない、と感じる。
百万語並べようとも、
数行の詩の方が、
本質に迫っている場合があるからだ。
私自身が、
長文をまともに読めないせいもあるけれど、
今、私が面白いと思う本は、
たいてい、活字びっしり埋まってない。