水鳴の人声観~苦楽の中で

自分の中にある言葉を形にしています。最近のマイブームは、鷹揚に、ごゆるりと、です♪

丸山眞男セレクションより「福沢諭吉の哲学」まえがき

この小節では、福沢の多方面にわたる言論著作を通じてその基底に一貫して流れている思惟方法と価値意識を探り出し、それが彼の政治・経済・社会等各領域の具体的問題に対する態度と批判の方向をいかに決定しているかということ究明することにあります。そのため、そうした目的のためには自から、彼の表面に現われた言説そのものよりも、そうした言説の行間にひそむ論理をヨリ重視することになると、丸山は言っています。

 

とくに福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思想家の場合には、その意識的な主張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入って、暗々裡に彼が前提している価値構造を明るみに持ち来さねばならない。そのために彼の論著を一度バラバラに解きほぐし再構成する方法をとらざるをえなかった、と丸山は言っています。

 

従って第二に、本稿は福沢の生涯を通じて一貫した思惟方法を問題とし、彼の思想の時代的な変遷や推移はそれ自体としては取り上げられていない。福沢の思想や立場にももとより時代に応じての発展もあり変容もあった。そうした変化はある場合には、彼の基本的な考え方にも拘わらず起こった変化であり、他の場合には、基本的な考え方ゆえに起こった推移であると、丸山は言っています。

 

最後に注意して置きたいことは、本稿では福沢の思想に対して欧米の学者や思想家の及ぼした影響については、ごく簡単に触れるということです。

 

福沢をもって単なるヨーロッパ文明の紹介者とし、彼の思想が欧米学者の著作からの翻訳にすぎないとしてその独創性を否定する見解は古くからある。この見解に対しては、まず、そのいうところの「独創性」とは、具体的に何を意味するかが反問されねばならない、と丸山は言っています。もし独創性ということが、いかなる先人の思想からも根本的な影響を受けずに己れの思想体系を構成したという意味ならば、福沢は到底独創的思想家とはいわれない。しかし果たして何人の思想家を構成した哲学者がかくの如き意味で独創的な名に値したであろうか。一個独立の思想家であるか、それとも他人の学説の単なる紹介者乃至解説者であるかということは、他の思想や学説の影響の大小によるのではなく、むしろ彼がどの程度までそうした影響を自己の思想のなかに「主体的」に取り入れたかということによって決まるのだと、丸山は言っています。

 

そうしてこの意味においては福沢の思想と哲学はまぎれもなき彼自身のものであった。例えば「学問のすすめ」がウエイランドのElements of moral scienceの圧倒的影響の下になり、「文明論之概略」の所論の背景にバックルのHistory of civilzation in EnglandやギゾーのHistoire de la civilisation en Europeが大きな存在となっていることは福沢自らの認めている如くです。

 

しかし、ギゾーやバックルの影響を受けたのは福沢だけでなかった。これらの歴史家の著作は明治初期の啓蒙思想家をはぐくんだ共通の土壌であった。加藤弘之然り、田口卯吉然り。しかも福沢の思惟傾向になにゆえに彼等のいずれにも見られぬ独自の色彩が生れたかということことが問題である、と丸山は言っています。福沢がいかにそれら西欧学者の所説や史論を自家薬籠中のものとし、完全にそれを彼の国と彼の時代の現実に従って、自己の立場の中に溶解したかということは、彼此の著作を細密に点検すればするほどますます深く納得されるということです。

 

個人的には、福沢という人物は、丸山さんも言っているようにヨーロッパ文明の紹介者のイメージが強くて、顔もいかめしくとっつきづらい人だと思っていた。しかし、丸山さんの解釈によればそんなことはなく、この後にも書かれているようにたしかに複雑な思考の持ち主であったと言っているけど、この小節を読むと福沢が身近に感じてくる。

 

歴史というのは、既に終わったものとして見られがちだけど、そこで生きた人達の言葉を読むと、その当時の時代の空気を感じ取ることができる。当時も福沢に対して誤解していた人達はいるのだろう。理解とは誤解の総体である、ことを一心に受けていたのが福沢だったとすれば、丸山もその時代状況の経験から、福沢の粘り強い思考に影響を受けたとしてもおかしくない。自分も時代状況を見ながら、福沢のように思考できるだろうか。今のままでは、まだ無理だろう。

丸山眞男セレクションより「政治的判断」の②

丸山は「政治的判断」の第二節で、政治的なものの考え方、あるいは認識のし方というものは、単に狭い意味で、政府の、国会のやっている活動についてわれわれが批判したり、判断するためだけに必要ではなく、われわれの日常的な政治的な活動に必要な思考法だと思う、と言っています。

 

政治的認識が高度であるということは、その個人、あるいはその国民にとっての政治的な成熟の度合を示すパロメーターである、と丸山は言っていて、政治的に成熟しているかどうかということは、簡単にいえば政治的認識が高度であるかどうかということに換言できるということです。

 

もっとも、政治的に成熟していないということは、必ずしもその個人にとって、あるいは国民にとって、道徳的なレベルが低いという事ではないと、丸山は断って言っており、政治的な認識は他の種類の認識に比して、特別に高級であるというわけではなく、また逆に特別低級であるというわけでもないと、言っています。

 

しかし、政治的な場で、あるいは政治的な状況で行動する時に、そういう考え方が、いいかえれば、政治的な思考法というものが不足していると、自分のせっかくの意図や目的というものと著しく違った結果が出てくると、丸山は言っています。

 

いわゆる政治的なリアリズムの不足、政治的な事象のリアルな認識についての訓練の不足があると、ある目的をもって行動しても、必ずしも結果はその通りにならず、意図とははなはなだしく違った結果が出てくるということになりがちだと、丸山は言っています。

 

よくそういう場合に、自分たちの政治的な成熟度の不足を隠ぺいするために、自分たちの意図とは違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのある「わるもの」あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明すると、丸山は言っています。

 

ずるい敵に、あるいはずるい悪者にだまされたということです。しかし、ずるい敵にだまされたという泣き言は、少なくとも政治的な状況におきましては最悪な弁解である、と丸山は言っており、それは最も弁解にならない弁解である、と言っています。つまりそれは、自分が政治的に未成熟であったということの告白だということです。

 

特に、指導者の場合にはそうで、指導者というのは、一国の指導者だけでなく、あらゆる団体において、政治的な状況において行動する場合、その団体の指導者が自分の意図と違った結果が出た場合、あるいは自分の目的と違った結果が出た時に、これは結局何者かの陰謀によってそうなった、というふうにいって弁解し、説明することは、自分の無能力の告白である、と丸山は言っています。

 

つまり、自分の状況認識の誤りというものが、往々にしてすべてそれが実は政治的なリアリズムの不足から出ているにもかかわらず、相手の謀略によってそういう結果が生み出された、というふうに説明されるからです。これは、専門の政治家になると、ある目的で意識的にそういう説明を使うことがあります。

 

たとえば、アメリカの民主党に対して、戦後この数年来の共和党の攻撃の最も主たる攻撃点はどこにあるかというと、つまりアメリカの中国政策がロシアの謀略にかかった、という説明、ロシアにしてやられた、ということで、もしアメリカの中国政策がすべてロシアの謀略にかかったということで説明されるとするならば、それはわれわれの言葉でいえば、アメリカの指導者の政治的認識が著しく不足している、と丸山は言っています。言い方はひどいですが、アメリカが政治的にはなはだしく未成熟である、ということと同じことです。

 

こういう状況認識の錯誤からくる失敗を敵の謀略に帰する考え方というものは、たとえば軍人などには比較的多い思考法である、と丸山は言っています。日華事変が日本政府は初めは不拡大の方針であったが、それがどんどん拡大していったということについて、軍事専門家と称する人の説明をみると、うまく国共合作で抗日統一戦線にもってゆこうという、中共の謀略にひっかかって拡大していった、というふうに全部中共が綿密に陰謀をめぐらして、それが着々効を奏していったというような説明がされているということです。

 

これも同じ思考の範疇にはいり、日本の状況認識の誤りという問題が、その場合にすべて敵の謀略ということに帰せられてしまい、極端な場合には世界中のあらゆる出来事がユダヤ人の陰謀であるという考え方があるぐらいです。ユダヤ人が将棋の駒を動かすように、世界中のあらゆる所に自分の目的を実現していったという考え方が、(このごろは以前ほどではありませんが)一時あったわけだと、丸山は言っています。また、ウォール・ストリートの独占資本家が世界経済を全部あやつる陰謀をめぐらしている、というような見方もそれと似た見方です。

 

たとえば、私人間の経済関係においてこういうような見方がおかしいということは当然とされるわけです。ある人がきょう株を買うとしますと、それが買ったとたんに下落した。でその人は非常に損をした。もしその場合にその人が、きのう自分に株を売った人間に対して、「お前の謀略にかかった」といったらそれは通用するかというと通用しないわけです。つまり、株式市場というものに対する認識が足りなかった、ということです。相手はその市場の状況というものに「より」精通していた、と丸山は言っています。

 

先の見通しをもっていたから売った。買った方はそれを見通せなかったから買ったということでありまして、それを相手の謀略にかかった、というくらいなら、初めから株に手を出さなければいいわけです。経済状況の場合には、そういう需給関係というものは、特定の人の謀略によってすべて自由になるとは考えられておらず、それは一種の客観的な法則によって、需給関係が決まるのは当然だという常識があると丸山は言っています。

 

しかし、政治の場においては、とかく状況の客観的な推移によって起こったことまでが、すべて敵の手にかかった陰謀である、というふうに考えられやすく、それだけ経済の場合に比べて政治的に成熟した認識が地につきにくい、ということになると丸山は言っています。

 

恥ずかしながら、市民の一人として私自身も今回、東京都知事選で、野党全党が共闘することができなかった要因を、小池さんが、国民民主党を懐柔したからだ、と考えていましたが(陰謀論的な)、そうではないのかもしれない。どうしても力のある政治家を見ると、水面下で動いているのだろうな、と思うし、実際動いているのかもしれない。しかし、もし仮に小池さんが、国民民主党を懐柔しているのだとしたら、野党にまとまられると厄介、だと小池さん自身が思っており、それで行動に移したのだとしたら、小池さんは小池さんなりの政治的な認識(野党に対する脅威)で、世界を見ているのだと考えられる。なにしろ、今回のコロナの件で、国民の中には不満がたまっている人もいるのは事実。そういう場合、無党派層などが、小池さんではない立候補者に入れる可能性も高い。

 

政治状況により「精通」すること、政治的認識を高度にするためには、自分が観えていなかったファクターのぬけもれだけでなく、それ以外の視点も考えてみる必要がある。

 

 

丸山眞男セレクションより「ある感想」

この小節では、明治の自由民権論に対する冷笑的批判に対して中江兆民がいろいろな個所で試みている反批判について取り上げています。なんと、驚くなかれ、進歩の立場に対する批判のパターンが六・七十年前の日本と今日とで驚くほど変わっていない、と丸山は言っています。

 

丸山は、中江兆民の言葉を取り上げ、いわゆる通人的政治家が民権論を「あんな思想はもう古いよ」といって斥ける論法はそのまま今日、社会主義いなデモクラシイの基本理念に対する一見スマートな批評としてそのへんにゴロゴロ通用している、と言っています。「行われるがために陳腐となった」のではなく、「行われずして而も言論として陳腐となれる」政治理念がいかにこの国に累々としているか、丸山は嘆いています。

 

「陳腐」な思想の実行を執拗に要求することはそれ自体が「野暮」のしるしと考えられ、その代わりに肌ざわりとか口あたりとかいうような感覚的な次元で言論が受け止められ批判される日本の伝統的傾向は、めまぐるしい「新鮮さ」の追求というマス・メディアの世界的通有性と重なり合って、兆民の指摘した批判様式は今日彼の時代より幾層倍も激しくなっている、と丸山は言っています。

 

公式論とか公式的とかいう批判のなかには、その公式の真理性を棚上げして、公式論=陳腐=誤謬という方程式に平気でよりかかっているたぐいのものがあまりにもしばしば見受けられ、丸山に言わせるとこういう批判形式こそ実は今日のもっとも「陳腐」な言論、だと皮肉っています。

 

さすがに、丸山さんがここでいうように、「デモクラシー」を「古い」という理由で批判する人は、もう多くない。しかしそうは言っても、今でも日本全体が「デモクラシー」(民主主義)を実践できているかと言えば、とてもそうは思えない。権利というものを行使する感覚が、日本は教科書的な政治教育しか受けてないせいもあって、ほとんどない。若い世代の政治から距離をとる姿勢も同様の出来事で、そういう「デモクラシー」の実践よりも、YouTubeで動画を撮ってみんなにみてもらったり、ツイッターで呟いて人から評価を得ることに勤しんでいる。中には、政治系の動画をあげている人もいるが、これを「デモクラシー」の実践と受け取るかは、評価は二分するだろう。

 

丸山さんが言うように、マスメディアだけに留まらず、メディアの力でめまぐるしい「新鮮さ」の追求のゆえに、政治に意識的にコミットするというよりかは、政治についてそれこそ新しい「知識」だけ学ぶ人になりがちだと思う。これもまた丸山さんが言うように「野暮」の「しるし」として。(以前、シールズを「情報弱者」と呼んでいた人達の発想はここにあるのかもしれない)

 

この小節では、さらに「進歩」の立場に対する第二の批判様式として、進歩派の生活態度に対する揶揄にすり替えるやり方があった。参議である井上馨を取り上げ、彼が自由民権運動家の生活を批判している。「束縛・圧制をしている民権家の言葉に、どれほど耳を傾ける価値があるのかな」といったニュアンスの批判である。兆民は、この批判自体は、受け止めた上で、それにどう反論するかを言っている。井上はこれに続けて、「だから諸君はなまじ民権論などにかぶれないで大いに人生を享楽し給え」と言う。

 

こういった言葉は、最近のネット言説をみても同じことだろう。「好きな事だけやれ」「自由を謳歌している俺。そうじゃない君」「人生、楽しんでる~?」などなど。一部、自分が少し盛った言説もあるが、おしなべてこれに似た類の「自己啓発」のようなものが流行りである。ここで注目すべきなのは、これに似た言説が、明治の時代からあるということだ。つまりその時代から日本の「自己啓発」文化は変わらない。ある意味、変わらない強みがあるとも言える。手を変え品を変え、様々な自己啓発があるのは事実だが、基本はこの参議井上馨の「快楽哲学」のようなものが、日本人には「受けやすい」という事だろうか。「進歩」の立場で行動するものは、自らのなかに深く根ざす生活なり行動様式なりの「惰性」とたたかいながら「同時に」社会の「惰性」とたたかうというきわめて困難な課題を背負っている、丸山さんは言っている。

 

たとえば、簡単な話が、自分が権利を行使することはやるが、他人の権利は蹂躙する。

これは、生活の惰性とのたたかい。そして、そういう言説が流布される「社会」の、あまりにも歴史が長い「伝統」とも言っていいぐらいの「快楽哲学」のたたかい、があるということだ。ウロボロスの輪のように、両輪でありどっちか片っぽだけ「たたかえば」いいわけではない。 

 

個人的には、ここで兆民が感じ怒りは、自由民権家の苦闘と苦悩を知らない自分にとって想像するのが難しい。ただ「快楽哲学」が猛威を振るっている日本の状況を見ると、怒りを通り越した兆民の悲しみがうすぼんやりと見えてくる。

丸山眞男セレクションより「政治的判断」の①

この「政治的判断」という小節では、まず初めに政治に対するわれわれの思考法、考え方を問題にしています。第一節では、これから現実の政治論そのものをお話しするのではなく、具体的な政治の問題に対するわれわれの「認識のし方」というものを中心にしてお話すると、言っています。その理由は、その問題がいつも抜きになって、すぐ内容的な政治論について「良い」とか「悪い」とか、といっていて、そこから困った現象が起きているからだと、丸山は述べています。ここでは、政治の認識論を話の俎上にあげています。

 

大学時代に何回か読んでいてそのたびに中身を忘れていたのですが、数年ぶりに読み返してこの「政治的判断」は このセレクションの中でも読みやすく、そしてアクチュアルです。

今後は少しずつ、丸山眞男さんにも言及していこうと思います。大学を中退して、政治学からだいぶ離れていたけど、また戻ってくるところが面白い。昔、専修大学に通っていた頃、岡田憲治先生が「15歳でも分かるような文章で」とレポート採点してくれていたけど、この意味が「統合失調症」になって、本が読めなくなったことでよく分かるようになった。

中身を理解するという事は、その年齢の人でも分かるように「伝えれられる」ということだ。あの当時はなんだか「分かったふり」をしていた。でも、ほとんど理解していないということに気づき、今ようやく、丸山さんが身近になってきた。

あの頃は、天高くそびえたっている「政治学」の巨人、という印象があったけど、じっくり読んでみるとすごく付き合いのいい(ある意味では、ねちっこい)おじさんだな、と思った。たしかに、丸山さんは、インテリ臭漂う、横文字や独特な文体の文章もある。そういう意味では、現代人はさっぱりかもしれない。

 

そういう点では、まず丸山さんを知る上で、この政治的判断を取り上げたのは正解かもしれない。

 

今までは、禅や老荘思想の考えも悪くない、と思って一時的にある種、「政治」から逃避していたけど、実はあとで紹介するように「政治」からは、逃げられない。丸山さんに言わせれば、生きるというのは「日常行為」そのものが、全て「政治行動」。(本人はそう思ってなくても)

 

これを聞くと、人によってはイヤかもしれない。「俺の日常生活がなんで政治行動なんだよ」と。しかし、政治から逃避する人が増えることで、間接的に政治の「専制政治」(支配者が独断で決めていく政治)を生み出すとしたら、もはやその日常生活は、政治的な行為に含まれざるを得ない。それが悪い、と言っているのではない。ただ、「政治学」的に見ると、「政治行動」として扱われるということだ。それは覚えておいてほしい。

 

 

 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

  • 作者:丸山 眞男
  • 発売日: 2010/04/09
  • メディア: 文庫
 

 

 

読書って、やっぱり自分で「探し出して」読む方がいい気がする

玉置浩二さんとの出会いは偶然である。

 

たまたま、自分の好きなミュージシャンの人が

呟いていて、それをきっかけに聴いたら

「ハマった」というわけだ。

 

今、「嫌われる勇気」でベストセラー作家になった

岸見一郎さんの本を読んでいるのだけど

読書もまた、その時期によって

面白さが変わる、という。

 

正直、今自分が読んでいてハマっている本は

どちらかというと「漫画」に多く

「デスラバ」や「罪と快」など

性的な欲求をテーマにしているものが多い。

 

昔は、どちらかというと

「文学的な」作品を読んできたこともあり

そこへの関心はあるにはあったが

あまり意識していなかった。

 

しかし、玉置浩二さんの歌詞といい

やはり、異性を求める気持ちが自分にはあるのだと思う。

 

 

本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

 

 

自分の中で「恋愛」を「賛美」したいわけではなく

やはり「物語」というのは、異質な

異なる性を持つ人間同士が関わった方が

純粋に「面白い」と思うのだ。

 

たしかに、私が愛読している「漫画群」は

「性行為」について描かれている部分もあり

そこを人々は「変態」とか「フェチ」とか言う。

 

もちろん、そこの領域も好きであることは確かだ。

 

しかし、そこの部分だけが好きなわけではない。

 

そこに至るまでの「プロセス」が面白いのであって

噛み合ったり、噛み合わない、その繰り返しが

漫画の面白さであり、魅力なのである。

 

漫画の方が、設定が突飛で

それでいて、視覚情報で読みやすい。

 

しかも、決して「妄想的な」作品ではない。

 

それに対して、小説は

どうも、馴染めないというか

性的なテーマに関わる「物語」の

「物語性」が弱い。

 

まぁ、これぐらいにしておこう。

 

とりあえず、明日行けたら

BOOKOFFにでも行って

そういう小説を探し出して

どっぷり浸かりたい。

 

 

人間関係が富む

私は今まで、色んな人と出会ってきた。

 

しかし、そのほとんどの出会いを「縁」にすることは

出来なかった。

 

自らの「選択」で、孤独になり

孤立化していった。

 

自分がそういう出会いをしても

すぐ自分から別れることで

「自分は友達ができない」という

価値観を作っていた。

 

しかし、流石にそういうことを

繰り返していくと

「このパターンで行き詰ってる気がする・・・」と

思うようになっていく。

 

私は、二月八日生まれの水瓶座だが

もうすぐ来る誕生日の近くまで

出会った人たちを

ほとんど「持続的に」大事にしてこなかった。

 

一瞬ならある。

 

一か月・三か月・半年・一年

長い時では、三年やもっと長いレベルではあるけど

それは「小学生の時」だ。

 

私が、中学や高校で虐められてからは

人への不信感で、今まで長く付き合えた人はいない。

 

唯一今、いるのは、デイケアで出会った「ひとり」の友人。

 

彼だけはまだ「つながっている」。

 

彼とは二年以上つながっている。

 

今は、住んでいる地域の「おかげ」で

同じ精神疾患の人とも、つながっている。

 

「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が

腑に落ちるまで時間はかかったけど

今まで自分から「切ってきた」

人との出会い。

 

そして、そのあとにつながっていった人との出会い。

 

私は、昔から経済的な成功というものには

興味がなかった。

 

両親がそういうタイプというせいもあるが

元々「成り上がってやろう」とか「お金持ちに」

という発想がなかった。

 

そういう意味では、経済的に恵まれていたのかもしれない。

 

でもその代わり、人間関係には関心があった。

 

と言うのもある時期までは、私は

中学生の二年ぐらいまでは

人間関係が充実していたからだ。

(もう記憶がうろ覚えだがw)

 

で、この動画を見てあらためて

悪因悪果・善因善果だと気づかされた。

 

www.youtube.com

 

そして「人間関係が富む」そういう人間になりたいと。

 

今までは、撒いた種を芽が出る前に

自分で足で踏みつぶしていた。

 

Twitterでも、Facebookでも

そこで出会ってきた人たちと出会いを捨てて

どこか一人の世界に行こうとしていた。

 

でもそれじゃあ、だめなんだ。

 

「人間関係が豊かである」

 

そのためにも

人から信頼を得る。

 

一緒にいて楽しかったり

明るかったり

思いやりのある人になれるように

日々、丁寧に一生懸命になっていく。

 

因果応報で、いい種を

撒いていく。

 

読者登録している人達、今まで関わってくれた人達

今関わってくれている人達に

感謝します。

 

これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

贈り物はいつでもミスマッチ

肝に銘じておこう。

 

追記、引用。

 

ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。それが理解したいからである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。

 

内田樹さんより。